2009年12月31日木曜日

結婚、星の王、エディプス王

  1. イーゴリ・ストラヴィンスキー:バレエ音楽「結婚」
  2. 同上:カンタータ「星の王」
  3. 同上:オペラ=オラトリオ「エディプス王」
ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団ほか
12月31日 マリインスキー・コンサートホール 16:00~

もともと行く予定はなかったが、直前にプログラムをチェックして見ると、一度生で接してみたいと思っていた「結婚」が追加されている!!これは行かねばと即チケットを購入(ただし、一番安い席)。

16時開始の案内だったが、16時を過ぎてもリハーサルの音が聞こえている。往生際が悪いなあと思いつつ会場に入れるのを待っていたが、実際に舞台を見て納得。何本も設置されたマイク。どうやら録音するつもりらしい。そういえば昔、『レコード芸術』かなんかのインタビューで、ゲルギエフは「ストラヴィンスキーの「結婚」は好きな作品なので録音したい」と言ってたっけ。どうも今日演奏された3曲は、すべて録音されたようだ。ゲルギエフは2月にも、「兵士の物語」「きつね」「ピアノと管楽器のための協奏曲」というストラヴィンスキー・プロを振るつもりらしいが、それも録音してCDにするのだろう か。

ともかく、さすがに録音するだけあって、今日の演奏は昨日より音楽を丁寧に作っている様子がうかがえた。特に「結婚」はロシア語の発音を活かしたアクセントをつけたりして、ネイティヴの強みを生かしていた。ただ独唱陣は、合唱と器楽アンサンブルに埋もれがち。生で聞くと、ゲルギエフの指示が十分活きていないような気がしたが、CDで聞くとどうなっているだろう。打楽器群は相変わらず上手い。ピアノはもっと自己主張が強いほうが好みだが、これは普段聞いている演奏がバーンスタイン盤だから、ということもあろうだろう。なにしろバーンスタイン盤は、ピアノがアリゲリッチ、ツィマーマン、カツァリス、フランセシュという豪華メンバーだから。ゲルギエフのテンポ設定はバーンスタインに比べて早目。ちょっと急いてるような気もした。とまあ、細かい不満はあるものの、生でピアノ奏者4人と打楽器奏者7人、それに独唱者、混声合唱という特異な編成のアンサンブルを見るのは楽しかった。

「星の王」はCDでも聞いたことがない、正真正銘、初めて聞く曲。4管編成のくせに、ほとんど静かで、すぐに終わってしまう不思議な曲。何も知らずに聞くと、ストラヴィンスキーとは分からないかも。でも面白い曲だと思った。「エディプス王」は、同じ独奏者で11月にも聞いたことがあるが、その時は舞台形式だった。今回はコンサート形式だけあって、独奏者も歌のほうに専念できたためか、全体的に11月より完成度が高かったように思う。といっても、(いつものことだが)聞いていて熱くなったとか、そういうわけではないのだが。

2009年12月30日水曜日

ゲルギエフとW.ホワイトの「ファウストの劫罰」

  • エクトル・ベルリオーズ:劇的物語「ファウストの劫罰」
ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団、ウィラード・ホワイト(バス・バリトン)ほか
12月30日 マリンスキー・コンサートホール 19:00~

行こうかどうしようか迷ったけれど、年末はたぶん時間があるだろうし、「ファウストの劫罰」もそう簡単に実演では聞けないだろうから、というわけでチケットを買ってしまった。

年末年始のゲルギエフのスケジュールはほとんど異常で、12月19日から1月5日まで、12月21日、22日、1月1日を除いて、毎日マリインスキーのオケを指揮している。しかも曲目が大作ぞろいで、ムソルグスキーの「ホヴァンシチナ」を皮切りに、マーラーの交響曲の1~5番だとか、ベルリオーズの「トロイ人」「ファウストの劫罰」だとか、R.シュトラウスの「影のない女」「エレクトラ」だとか…。この人、影武者が(2人ぐらい)いるのじゃないだろうかと思いたくなる。少なくとも、十分なリハーサルをしている時間などないはずで、今日も練り上げられた演奏にはならないだろうと思っていたが、案の定、予想通りだった。

いくら団員数が多いとはいえ、これだけのハードスケジュールの中、ベルリオーズのスコアをちゃんと音にしてみせるゲルギエフとマリインスキーの技術力は見事だと思う。でもいつものことながら、そこで終わり。たとえば第3部の終わりなど、実に熱狂的というか、演奏次第によっては狂乱の音楽になるはずだが、今日は聞いていてまるで熱くなれなかった。あるいは第4部の地獄落ちの場面では迫力のあるサウンドを聞かせてくれたが、その前のファウストとメフィストフェレスの騎行の緊張感が今一つだったため、いくらパワーがあっても唐突感が否めない。最後の合唱も、もっと美しくできるのでは、という気がする。だってここは「天使の合唱」でしょ?

独唱者の中では、ウィーランド・ホワイトが見事。もともと、ホワイトが歌うというのがウリのコンサートだったが、その宣伝はうそではなかった。まさしく板についた海千山千のメフィストフェレスで、聞いていて楽しかった。これだったら、27日にあった彼のソロ・リサイタルに行ったほうが良かったかも。それに比べると、ファウスト(ダニール・シュトダ)は声量がイマイチで、完全にメフィストフェレスに圧され気味。メフィストフェレスの手玉に取られたあげく、地獄に落とされるのもむべなるかなという感じである。むしろマルグリート役のエカチェリーナ・セメンチュークのほうが、立派な歌声を披露していた。歌い方が、いささかオペラチックにすぎるような気がしたが、ここら辺は好き好きだろう。

2009年12月25日金曜日

ボロディン四重奏団の現在

  1. ニコライ・ミャスコフスキー:弦楽四重奏曲第13番イ短調
  2. ヨーゼフ・ハイドン:弦楽四重奏曲第42番ニ長調
  3. ピョートル・チャイコフスキー:弦楽四重奏曲第2番ヘ長調
  4. 同上:アンダンテ・カンタービレ(アンコール)
ボロディン四重奏団
12月24日 フィルハーモニー小ホール 19:00~


ボロディン四重奏団と言えばソ連時代にロシアものの演奏でその名を世界に轟かせた団体であり、中でもショスタコーヴィチの全集の録音は、今やほとんど聖書扱いのような気がする。ただ今では古参のチェリスト、ベルリンスキーも亡くなってしまった。全盛期の勢いを取りもどすのは無理かもしれない。そうは言っても、聞いてもいないのに「ボロディン四重奏団は落ちたよね」などとしたり顔で話すのもおかしな話である。チケットも安かったし(200ルーブル)、聞きにいくことに。

よくある話だが、大して期待もせずに聞きにいくと、これが意外と良かったりする。今回もそう。往年の峻厳な雰囲気は求められないかもしれないが、でもやっぱりこの人たち上手い。特に面白かったのが、最初のミャスコフスキー。ミャスコフスキーについては、コンドラシン指揮の交響曲第6番のCDを持っているが、あまりピンとこなくて、他の曲は聞いていなかった。だが最後の弦楽四重奏曲は、もちろん初めて聞く曲だが、隠れた名曲ではないか思った。晩年のブラームスをモダンな感じにしたらこうなる、と言えばいいだろうか。もう一度聞きたいと思い、演奏会終了後、ソ連時代に録音されたタネーエフ四重奏団のCDを買ってかえったが、ボロディン四重奏団のほうが曲の20世紀的な側面というか、立体感を上手く描いていたと思う。ボロディン四重奏団の演奏で聞けば、この曲が好きになる人も増えるのではないだろうか。

残りのハイドンとチャイコフスキーも悪くはなかったが、やはりミャスコフスキーが大きな発見だった。あとは、アンコールのアンダンテ・カンタービレが、早めのテンポで一見あっさりしているようながら、でも実はしっかり歌っていて気にいった。

驚いたのは、小ホールなのに客が半分も入っていなかったこと。確かにプログラムはかなり渋いが…。ロシアでも、ボロディン四重奏団は過去のものなのだろうか。

2009年12月20日日曜日

ムソルグスキーの美しさ~オペラ「ホヴァンシチナ」

  • モデスト・ムソルグスキー:歌劇「ホヴァンシチナ」
ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団、オリガ・ボロディナほか
12月19日 マリンスキー劇場 18:00~


ゲルギエフの指揮ってもうあんまり期待できないなあ、でも「ホヴァンシチナ」は興味あるなあと迷った末、知人のロシア人(彼もあまりゲルギエフのことを評価していない)に意見を求めたところ、「『ホヴァンシチナ』は美しいオペラだからぜひ聞きなさい」と強く勧められた。別のロシア人もやはり、「ホヴァンシチナ」はとても美しいオペラよ、と言っていた。じゃあ、聞かないわけにはいかない。

でも実は、もともとムソルグスキーってそんなに得意な作曲家ではなく、代表作の「展覧会の絵」と「はげ山の一夜」を時々聞く程度だった。したがってムソルグスキーの曲が「美しい」と言われても、ピンとこなかった。この人はむしろ、ストラヴィンスキーを先取りしたような破天荒さがウリだと思っていたのである。

実際に聞いてみて、確かに美しいと思った。でもチャイコフスキーのような甘い美しさではなく、むしろ対照的なぐらい、純朴な感じである。これはこれで、「ロシア的」と言えるかもしれない。また衣装がとても綺麗だったうえ、第1幕では本物の白馬まで登場。視覚的にも楽しめた。

しかしストーリーをちゃんと予習せずに、この長丁場のオペラにつきあうのはきつかったなあ。午後6時過ぎに始まって、2回の休憩をはさみ、終わったのが11時頃だから。美しい部分が多いのは確かだが、逆に言うと「はげ山」よろしく劇的に盛りあがる個所が少ないのである。ストーリーをちゃんと追わないと、単調に聞こえる。おまけにまだ時差ボケが残っていたらしく、17日に続き客席で激しい睡魔に襲われた。もっといい体調で臨めば、もっといろいろな発見があったかも。

演奏は、いつもの通りちゃんと鳴っていたものの、それ以上のものではない。トランペット奏者とか、ピットで退屈そうに出番を待っているのが丸見えだった。歌手や合唱は総じて上出来だったように思う。

2009年12月19日土曜日

シュペリング&ヘルシンキ・フィルのメサイア

  • G.F.ヘンデル(W.A.モーツァルト編):オラトリオ「メサイア」
アンドレアス・シュペリング指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団、ドミナンテ合唱団ほか
12月17日 フィンランディア・ホール(ヘルシンキ) 19:00~

日本に一時帰国してロシアに戻る際、せっかくなのでヘルシンキに寄ってコンサートを聞きにいった。シュペリングの指揮で、モーツァルト編のメサイアを聞けるというのがポイント。この指揮者、メンデルスゾーン版のマタイ受難曲とか、補筆前の未完の断片をそのまま収録したモーツァルトのレクイエムとか、マニアックなCDをいろいろ出している人である。

会場に入ってみると、録音でもするのかマイクが多く立っている。メサイアは2年前に札幌で、鈴木雅明指揮のBCJで聞いたことがあるけど、あの時はオーケストラも合唱団も、驚くほど小編成。チェロなんて2人しかいな かった。でも今回はチェロだけで3プルトあったし、合唱団は両翼に目一杯広がっている。編成は、通常のオーケストラと変わらない。でも案の定、ビブラートはほとんどかけず、響はとてもスッキリ。合唱団はベーレンライターと思しき楽譜を手にしていた。シュペリングの指揮は結構明快で、分かりやすい。前のほうの席に座っていたが、時々シュペリングが合唱団と一緒に歌っているのが聞こえた。

正直なところ、クラリネットの響きにちょっと違和感を覚えたものの(ストラヴィンスキーが新古典主義期に、しばしばクラリネットを除いた作品を書いたのが分かる気がした。バロックにクラリネットはやはり違和感がある)、全体的にはとてもいい明るい演奏だった。現代オーケストラならではの迫力もあって、BCJの時より楽しめた。残念だったのは、長旅と時差ボケのせいで、途中から睡魔との闘いになってしまったこと。ああ、せっかくの名演がもったいない…。今回の演奏会、CDにしてくれないかなあ。シュペリングが実力のある指揮者らしいというのは分かったので、今度は万全の体調で臨みたい。

2009年12月9日水曜日

リュビモフのシューベルト~教え子とのピアノ・デュオ

  1. フランツ・シューベルト:性格的行進曲第2番 ハ長調
  2. 同上:即興曲第2番変 イ長調、同第4番 ヘ短調(リュビモフのソロ)
  3. 同上:アレグロ イ短調「人生の嵐」
  4. 同上:華麗なるロンド イ長調
  5. 同上:舞曲集(グロツのソロ)
  6. 同上:ハンガリー風ディヴェルティメント ト短調
  7. 同上:性格的行進曲第2番 ハ長調
アレクセイ・リュビモフ、アレクセイ・グロツ(ピアノ)
12月8日 フィルハーモニー小ホール 19:00~


シューベルトって気にはなるのだが、今のところやや縁遠い存在である。彼が書きまくったリートという形式に、あまり馴染んでいないせいだと思う。でもこの人が晩年の弦楽四重奏とかで見せる暗さは気になる。それに、ベリオ、ツェエンダーといった現代の作曲家たちがシューベルトの作品を基にした作品を残している。また以前、前衛ピアニスト向井山朋子のコンサートを聞きに行った時、彼女もシューベルトの即興曲と街の「ノイズ」を組みあわせるというパフォーマンスを行っていた。最先端の実験を行っている音楽家を惹きつける何かが、シューベルトにはあるらしい。

今日の演奏家、アレクセイ・リュビモフも、ロシアで最も早くシェーンベルクを手掛けた人。70年代に彼が録音したシェーンベルクのCDを持っているが、切れ味のいい名演だと思う。ただそれだけでなく、この人はちゃんとモーツァルトのピアノ・ソナタ全集とかも録音している。もう一人のグロツという人は知らなかったが、まだ21歳という若手。モスクワ音楽院で、リュビモフにも師事しているらしい。いわば師弟の協演といったところか。グロツがリュビモフに位負けするかと思ったが、決してそんなことはなく、結構渡りあっていた。

どれもこれも聞いたことのない曲ばかりなので、曲と演奏に対する感想がごちゃ混ぜになっているが(シューベルトをほとんど聞いていないということが、よく分かる)、印象に残ったのは「人生の嵐」とディヴェルティメント。「人生の嵐」って、何かの交響曲の楽章ではないかと思うほど、響がシンフォニック。誰か管弦楽に編曲してほしい。でも演奏が一番充実していたのはディヴェルティメント。明らかに演奏者の集中力が最高潮。ディヴェルティメントとはいえ、哀愁を感じさせる曲であり、演奏だった。

最後に、アンコールのリストの曲を聞いていた際、ふと「次はドビュッシーのピアノ曲を生で聞きたいな」と思った。最近やっと、生のピアノの音の魅力が分かりだしたような気がする。

2009年12月4日金曜日

チェロで聞くヴァイオリン・ソナタ~クニャーゼフのリサイタル

  1. ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第4番イ短調
  2. 同上:ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調「春」
  3. セザール・フランク:ヴァイオリン・ソナタイ長調
アレクサンドル・クニャーゼフ(チェロ)、エカチェリーナ・スカナヴィ(ピアノ)
12月4日 フィルハーモニー小ホール 19:00~


アレクサンドル・クニャーゼフと言えば、日本では、緩急の差を極端につけたバッハの無伴奏組曲全曲のCDを出したことで、有名になった人である。ロシア出身の中堅若手のチェリストの中では、最も世界的に活躍しているのではないだろうか。しかし今回のプログラムには少し驚いた。全部ヴァイオリン・ソナタの編曲で固めているのだから。フランクはまだしも、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタのチェロ版なんて、あること自体初めて知った。ベートーヴェンは立派なチェロ・ソナタを5曲も書いているのに。

でも今回聞いてみて、何も知らなければ、最初からチェロのために書かれた曲だと思ってしまうだろうという感想をもった。「春」の出だしの有名な主題を除けば原曲を全く聞いていないということもあるだろうけど、チェロの曲として違和感は全くない。確かに、チェロには難しそうな早いパッセージが時々出てくるが、むしろそういうところこそ腕の見せ所とばかりに、クニャーゼフは見事に弾ききる。こんな編曲があるのなら、もっと演奏されてもいいのに。でも確かに、CDにしても売れないかも。

しかし、そうやって新たな発見をもたらしてくれた割には、クニャーゼフの演奏にいまひとつのめりこめなかった。以前同じ会場で聞いたマイスキーの場合は、「美音」「歌心」という実に分かりやすい長所をもっていて、聞き惚れることができたのだが、クニャーゼフの場合、特徴がつかみにくい。せっかくヴァイオリン・ソナタをチェロで弾くのだから、ヴァイオリンに出来ないぐらい、思いっきり朗々と歌ってほしいと思ったのだが、そこまで徹底しているわけでもない。ただそういう誘惑を感じさせる瞬間が、時々訪れたのである。

プログラムが変わっているからなのか、クニャーゼフの名はロシア国内ではあまり知られていないのか、400席ほどの小さい会場にも関わらず、客席はあまり埋まっていなかった。半分強と言ったところで、(日本での感覚からすれば)このクラスの演奏家としては明らかに少ないと思う。

2009年11月29日日曜日

見る交響曲~ハイドンとシュニトケ

  1. ヨーゼフ・ハイドン:交響曲第45番嬰ヘ短調「告別」
  2. アルフレード・シュニトケ:交響曲第1番
アレクサンドル・ティトフ指揮、サンクト・ペテルブルグ交響楽団
11月29日 フィルハーモニー大ホール 19:00~


ものすごくマニア受けしそうなプログラムである。もしこの2曲の共通点を即座に理解した人がいたら、相当なマニア。実は両曲とも、演奏家が演奏の最中に退場する。シュニトケの場合はそれにとどまらないが、まあそれはまた後で。指揮したのは、最近Northern FlowersからWartime Musicというシリーズを出しているアレクサンドル・ティトフ(これで何の事だか分かる人も、相当なマニア)。Wartime Musicといい今回のプログラムといい、この人、マニアックなプログラムが好きらしい。オケはフィルハーモニーの「第2オケ」である。

1曲目のハイドン。第一ヴァイオリン10人という大きめの編成で、一昔前のスタイルでの演奏。古楽奏法ほうが「疾風怒濤」という雰囲気が出て好きだが、中途半端にまねするよりはいいかも。それにこの曲はやっぱり終楽章で、演奏の最中なのに、団員が少しずつ去っていくのを目で確認するのが何よりも面白い。しかも今回はご丁寧にもロウソクを用意して、各団員の横で火を灯していた。奏法はともかく、この部分だけは忠実に再現したわけだ。ロウソクを吹きけすのは面白かったけど、ちょっと危ない「火遊び」ではなかろうか。フィルハーモニーは客席の出口が一つしかなく、いざ火事となれば大惨事は必至だからだ。

衝撃的だったのは、後半のシュニトケ。CDで聞いたことはあったけど、1時間切れ目なく続くノイズと無秩序な引用の嵐に耐えられなかった。しかし生で「見ると」面白い。

まず舞台上にオーケストラがいないのに、鐘が乱打され(鐘は要所要所で鳴らされる)、団員たちが駆けこんできて、てんでバラバラに弾きはじめる。最後に指揮者が登場し、曲が本格的に(?)スタート。あとは混沌の1時間。ベートーヴェンの引用があったり、ショスタコーヴィチ風のマーチになったり、ジャズを始めたり、壮麗にパイプ・オルガンが鳴りひびいたり。これらが猛烈な不協和音の中から浮かびあがってくる。オーケストラでやるノイズミュージックと言えばいいだろうか。視覚的にも面白く、途中で管楽器群が演奏しながら退場し、しばらくすると戻ってきた。そういえばシュニトケって、ヴァイオリン協奏曲第4番でも「視覚的カデンツァ」というのをソリストに要求してたっけ。最後のほうも、団員が次々と退場し、指揮者も出ていって、残ったヴァイオリニスト2人が、ハイドンの「告別」の引用を奏でる。これで終わりかというと、そうではなく、また鐘が乱打され、冒頭の再現。指揮者が再登場し、全オーケストラで和音を奏でたところで終わり。最後まで何が起こるか分からない。いや~凄い1時間だった。

こんなマニアックなプログラムなのに、客席はなぜかほぼ満席。なんで?ただやっぱりシュニトケはきつかったらしく、今回は演奏の最中に退席する人の姿が目立っ た。でも演奏終了直後に大きな拍手が起こったことを考えると、シュニトケのことを知っていて来た人も結構いるということか。シュニトケって、ロシア人の あいだでどの程度知られているのだろう。

「第2オケ」って、こちらに来てからあまりいい演奏を聞いたことがなかったので、期待していなかったのだが、今日は突然別のオケになったように生気があった。今日に限っては「第1オケ」よりもマリインスキーよりも良かったと言っていい。つまり、この街に住むようになってから聞いたロシアのオケのコンサートの中で、今日が一番楽しかったのだ。いつもの癖のある金管の音色も、シュニトケに関してはそんなに問題にならない。オケ全体の荒々しいパワーが、シュニトケと見事にマッチしていたし、それを統率していたティトフも見事だった。

シュニトケの交響曲第1番は、名作とは言えないかもしれないけど、「音楽とは何か?」と問いかけてくる問題作であることは確か。ソ連が生みだした音楽の極北だと思う。この曲に生で(しかも高い水準の演奏で)接することが出来たのは、一生ものの収穫。

「ロシアのクラシックはちょっと期待外れだった」と書いた翌日に、これだけ絶賛するのはおかしいかもしれないが、でも良いものは良いのだから、しょうがない。

2009年11月28日土曜日

ダイアナ・クラール in St. Petersburg


11月28日 リムスキー=コルサコフ音楽院 19:00~

これは完全に、ネームヴァリューに惹かれて行ったコンサート。ある時マリインスキー劇場に行った際、目の前のリムスキー=コルサコフ音楽院に大きなポスターがかかっているのを発見。「Дайана Кролл?聞いたことある名前だなあ」と思って家に帰って調べてみると、結構な大物であることを知る。つまりその程度の認識だったのだ。私はジャズも聞くけど、かなり好みが偏っているので。さすがに平原綾香の時のように、最前列で600ルーブルとは行かないものの、2階席で900ルーブルだったらまあいいかというわけで、チケットを購入。

実際に聞いてみて、なぜ私がこの人に今まで出会わなかったか理解できた。確かに巧い。声は安定しているし、ピアノも、最近聞いたクラシックのピアニストほど美しいタッチというわけではないが、指はよく回る。バックの3人も十分なテクニックでもって、彼女を支える。特にバラード系の曲では、彼女の重量感のある声が、威力を発揮していた。

でも正直に言うと、「この程度の水準なら、ペテルブルグのライブハウスで出会うことも難しくないなあ」というものだった。非常に安定した演奏を聞かせてくれるのだが、見方を変えると今一つジャズ的なスリルが足りないという気がしたのだ。ヴォルコフなどを聞いているときに感じる、崩壊寸前の「危うさ」がないというのか。とにかく私は、クラシックでもジャズでも「前衛的なもの」に惹かれるらしい(まだ若い証拠?)。

あと、なぜか会場が普段バレエをやっているホールで非常に広いので、ジャズに不向きだったということもあるかもしれない。平原綾香の時のように、目の前で聞けばもっと印象が良かった可能性はある。平原綾香の場合は、目の前で生の声を聞いてノックアウトされたということがあるから。本当に、なぜ音楽院だったのだろう?

ロシアに来てから半年以上。ロシアのクラシックはちょっと期待外れだったけど、、その分ロシア・ジャズを発見できたのは収穫だった。残りの滞在期間で、この評価はどうなるだろう。

サンクト・ペテルブルグ弦楽四重奏団

  1. アレクサンドル・グラズノフ:3つのノヴェレッテ
  2. ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第11番ヘ短調「セリオーソ」
  3. アレクサンドル・ボロディン:夜想曲
  4. フェリックス・メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲第1番変ホ長調
サンクト・ペテルブルグ弦楽四重奏団
11月27日 ベロセリスキー=ベロゼルスキー公邸 19:30~


実は私は、弦楽四重奏という形式が苦手である。ベートーヴェンもショスタコーヴィチも、交響曲や協奏曲は好きなのに、弦楽四重奏はなんだか食指が動かない。両者とも「弦楽四重奏を聞かずして~」みたいなところがあるのに、凝縮されすぎているような気がして、気が休まらないのだ。ピアノが1台加わったピアノ五重奏という形式は、協奏曲みたいで好きだけど。弦楽四重奏の中で比較的好きなのは、バルトークとラヴェルである。

でもお誘いを受けたこともあり、ここらへんで弦楽四重奏にも挑戦してみようというわけで、出かけることに。初めて耳にする団体だったが、意外と上手かった。特にチェロが安定している。お国ものとドイツものを組みあわせたプログラムだけど、一番楽しめたのは、最初のグラズノフだろうか。曲自体にユーモアがあり、彼らの演奏もつぼにはまっていたような気がする。

基本的にファースト・ヴァイオリン主導型の演奏だったような気がするけど、このファーストの音色が、ほかの3人に比べて少し浮いていたのが、気になった。特にメンデルスゾーンでその傾向があったような気がする。彼らは、ショスタコーヴィチやバルトークでは、どういう演奏を聞かせてくれるだろうか。アンコールで弾いたシュルホフ(曲名は聞きのがした)が結構良かっただけに(あるいは、単なる曲に対する好みの問題!?)、もっとモダンな曲の演奏も聞いてみたい。

2009年11月21日土曜日

スナイダーがロシアのオケを指揮してブルックナーを

  1. ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ハ短調
  2. アントン・ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調
ニコライ・スナイダー指揮、マリインスキー劇場管弦楽団、サリム・アブド・アシュカル(ピアノ)
11月21日 マリインスキー劇場コンサートホール 19:00~


ほとんど、物珍しさに惹かれて行ってしまったコンサートである。

まず、こないだヴァイオリンを弾いたスナイダーが指揮をするという。彼が指揮することを知らなかったので、この点に興味を覚えてしまった。しかしマリインスキー劇場のHPによれば、マリインスキーを指揮するのはこれで2度目。他にも、ミュンヘン・フィルやチェコ・フィル、フランス放送フィルなど、結構な名門オケを振っている。どうやら、「余技」ではないようだ。そのうち指揮者としてのCDも出すかも。

次に、ロシアのオケ相手にブルックナーを取りあげるという、その勇気(あるいは無謀さ)に驚嘆してしまった。ロシアでは滅多にブルックナーなどやらないのだ。そういえば、前回も書いたようにブラームスの交響曲も意外とやらないし、シューマンの交響曲もあまり聞かない(来月、フィルハーモニーで4番を取りあげるけど)。案外ロシアとドイツ・ロマン派の交響曲って、縁遠いのだろうか。

それはともかくとして、ブルックナーというのは指揮者の中でもその奥義を極めた人が取りあげるというイメージがあるだけに(朝比奈隆のイメージが濃すぎ?)、まだ若いスナイダーが、よりによってブルックナーに全く慣れていないと思われるマリインスキーのオケを振ってブルックナーに挑戦するということに、驚いてしまった。確かにソリストをやっていたら、ブルックナーなんて弾く機会がないけど。

さて、まずはベートーヴェン。スナイダーの指揮ぶりはあまり流麗ではなく、どちらかというと堅い印象を受けたが、でもオーケストラは結構充実した響きを出している。アシュカルはイスラエル出身の若手だそうだが、今日の演奏を聞いただけでは、特に良いとも悪いとも言いがたい。ベートーヴェンの3番をそれほど聞きこんでいないせいもあるだろうけど。むしろ、アンコールで弾いたブラームスの間奏曲のほうに、この人のタッチの美しさが活きていたように思った。

休息後、注目のブルックナー。全体を通して聞いた印象は、新鮮に響く部分もあったが、明らかに練習不足と思われる個所もあって、出来は大体予想の範囲内。ソロの出来もばらつきがあった。楽章を追うごとに荒削りになっていったところを見ると、おそらく楽章順にリハーサルをしていった結果、第4楽章で時間切れになってしまったのではないだろうか。スナイダーの解釈自体は興味深くて、堂々とした恰幅のいいブルックナーよりも、響やリズムを整理して、アグレッシブなブルックナー像を描きたかったようだ(たぶん)。驚いたのは、暗譜で振っていたこと。こないだエルガーを弾いた時は、楽譜を置いていたのに。普通逆だと思う(笑)。こちらの予想以上に、彼はブルックナーに精通しているのかもしれない。ブルックナーに慣れている、ドイツやあるいは日本のオケを振ったらどうなるだろうか、一度聞いてみたい。

ブルックナーという「聞きなれない」名前が敬遠されたのか、客席の埋まり具合は半分強といったところ。私の隣の席の女性など退屈したらしく、ブルックナーの終楽章の最中にiPhone で遊びはじめ、曲が終わる前に出ていった。朝比奈隆がブルックナーを振りはじめたころの日本も、(iPhoneはなかったにしても)こんな雰囲気だったのだろうか。

2009年11月17日火曜日

ゲルギエフのドイツ・レクイエム

  1. エドワード・エルガー:ヴァイオリン協奏曲ロ短調
  2. ヨハネス・ブラームス:ドイツ・レクイエム
ワレリー・ゲルギエフ指揮、マイインスキー劇場管弦楽団&合唱団、ニコライ・スナイダー(ヴァイオリン)ほか
11月17日 マリインスキー劇場コンサートホール 19:00~


ロシアでなぜかあんまり演奏されないのが、ブラームス。ソリストからの要望があるのか、協奏曲はまだ時々演奏されるが、意外なほどやらないのが交響曲。こちらに来て半年になるが、まだ一度も生で聞いていない。日本ではしょっちゅうブラームスの交響曲をやっている印象があるので、対照的な気がする。個人的にブラームスの交響曲は4曲とも大好きなので、ここのところちょっと欲求不満である。でも誰の指揮で、と言われると困るのだが。ゲルギエフ?テミルカーノフ?どっちもブラームスとは結びつかないなあ。

でもゲルギエフが何を思ったか、ブラームスのドイツ・レクイエムを取りあげてくれた。ヴェルディとベルリオーズのレクイエムに手をつけたので、次はブラームスとでも思ったのか(そして来年の6月には、ブリテンの戦争レクイエム!)。ゲルギエフ自体にはあまり期待していないけれど、ドイツ・レクイエムを生で聞ける機会もそう多いとは思えないので、行くことにした。

結果は可もなく不可もなくといったところか。マリインスキーによくあるパターンで、曲の良さは伝わったので大きな不満はないのだが、だからと言ってとても感動したとか、忘れがたいとか、そういうわけではない。やっぱり生で聞く合唱っていいよね、というレベル。ゲルギエフはこの曲を合唱主体の曲と捉えているのか(いや、その捉え方は間違っていないだろうけど)、今回はもっぱら合唱が前面に出てオーケストラは隠れ気味。合唱を聞きながら、ああいい曲だなあとは思ったものの、もう少しブラームスのオーケストレーションの面白さも活かせなかっただろうか。正直に告白すると、コンサート前に韓国料理店で食べすぎたせいか、聞いている最中睡魔に襲われて、時々うつらうつらしながら聞いていた。

ドイツ・レクイエムの前には、エルガーの大作(45分もかかる)ヴァイオリン協奏曲。ソリストは最近注目のニコライ・スナイダー。でもこの曲、初めて聞くので、スナイダーがどうこうという前に曲自体の印象のほうが勝ってしまう。ソロ・パートはものすごく難しいらしいけれど、パガニーニのような華やかさがあるわけではなく、チェロ協奏曲のように劇的というわけでもなく、実に渋い色調。おかげで、みんな弾きたがらない。

面白かったのは、第3楽章。弦楽器のちょっと変わったピチカートにのってソロ・ヴァイオリンが印象的な長いソロを奏でる。見たことないピチカートの仕方だったけど、あれはなんて言うのだろう。この部分、マリインスキーにしては珍しく、ソリストとともに緊張感のある音楽を作っていたような気がする。第2楽章の終わりも美しかった。いずれにしろこの曲、何度か聞けば楽しく聞けるようになるかもしれない。

以下、トリビア。
  1. なぜ今日は、ゲルギエフが普段と違って燕尾服を着ていた。
  2. 客席にアファナシエフが来ていた。

2009年11月15日日曜日

アファナシエフのショパン

フレデリック・ショパン:ワルツ 作品34の2、69の1、64の1、70の2、69の2、64の2
同上:ポロネーズ 作品26の1、26の2、40の1,40の2

ワレリー・アファナシエフ(ピアノ)

11月15日 フィルハーモニー大ホール 19:00~


もともと近代オーケストラの色彩感にあこがれてクラシックの世界に入った私にとって、ショパンはいまだに縁遠い作曲家である。ファンが多いのは頭では理解できるが、あまり積極的に聞こうという気になれない。たまに、ピアノ協奏曲第1番を聞く程度である。この曲に関しては、どうしようもなくショボイオーケストラをしり目にピアノが1人威張りちらしているのが、なんだかおかしくて面白い。

つまり今日のコンサートに行ったのは、アファナシエフが聞きたかったから。と言っても、アファナシエフのファンというわけでもなく、むしろ極遅テンポで変な解釈を披露する「変態ピアニスト」というイメージだった。ただラジオやCDも含めて一度もまともに聞いたことがないので、食わず嫌いになる前に生で一度ぐらい聞いておいてもいいだろうという、軽い気持ちからに過ぎない。だからチケットも一番安い100ルーブル。良し悪しは別として、なんかやってくれるのではないかという期待があった。

私が今まで聞いたピアニストの中で一番面喰ったのは、高橋悠治。2005年の春、札幌でバッハのイタリア協奏曲とゴールドベルク変奏曲を演奏してくれたが、いずれも馴染んでいたグールドの演奏とは似ても似つかない解釈で(歌い方が全然違う!)、聞いている間ずっと「?」が頭の中を駆けめぐっていた。そもそも舞台に出てきたときから、ピアニストというよりひょうひょうとした近所のおっちゃんという感じで、それも「!?」。でもアンコールで弾いたサティは、会場の空気が一変するぐらいとても良かった。

それに比べればアファナシエフはずっとまとも(当り前か…)。ショパンのワルツもポロネーズもきちんと聞いたことがないので、その分、彼の解釈に違和感を覚えなかったというのもあるだろう。テンポは(たぶん)遅めだし、躍動感もあまり感じない。でもリズム感を完全に殺してしまっているわけではない。むしろリズム自体は、しっかりと生かしている。

ただアファナシエフのショパンは、ずいぶんと内省的である。小説に例えると、登場人物の心理的駆けひきや独白が続くような物語。あるいは全体を覆う不安感や焦燥感は、晩年のシューベルト(シューベルトもそれほど聞いているわけではないが)に通じるものがあると言えるかもしれない。これがショパンの「本質」なのか、それともアファナシエフが自分の色にショパンを染めてしまった結果なのか、ショパンをほとんど聞いていない私にはは分からない。でもショパンにそれほど思い入れのない私には、これはこれで面白かった。

2009年11月14日土曜日

ヴォルコフの追っかけ~ペテルブルグでジャズを聞く。その2

今週の火曜日、またJFCに行った。今回聞きたかったのは、ベーシストのウラジーミル・ヴォルコフ率いるヴォルコフトリオ。ヴォルコフのほかに、ギターのスラヴァ・クラショフとドラムスのデニス・スラドケヴィチがいる。9月にmuch betterという彼らのアルバムを買ったらとても面白く、それ以来注目するようになった。このアルバムではいろんなミュージシャンをゲストに招いて、民族音楽とジャズの融合(フュージョン)みたいなことをしているが、今回は3人だけで、民族音楽的なことはあまりしていなかった。でも日本で言うところのフュージョン色があることには、変わりはない。

この日はギターのクラショフが最初から「トランス状態」で、演奏に没入していた。この人、この調子で最後まで持つのかなと思っていたら、人間より先に楽器のほうがくたばってしまい、休息後の演奏で、2曲続けて弦が切れるアクシデント。その場ですぐに弦を張り替えている間、残った2人が即興演奏でつないでいた。ここら辺のスリリングな臨機応変ぶりは、ジャズならではという感じがする。

休息時間に、家にあった彼らのCD2枚を持っていて、サインをお願いしたところ、たまたまそのうちの1枚が今では入手困難な彼らのファースト・アルバムだったらしく、「一体どこで手に入れたんだ!?」と驚かれた。これで気にいってくれたのか(そりゃ、東洋人がサインをお願いに来るなんて、珍しいだろうから)、ヴォルコフが見かけによらない甲高い声で「明後日A2というライブハウスでまた演奏するよ」と教えてくれた。

そこで木曜日、A2というライブハウスに行ってみたが、ここはもうジャズを通りこしてロック系の世界。日本ではロックのコンサートなんて見向きもしないのに、なんでロシアだと気軽に来てしまうのか自分でも不思議なのだが、「どうせどこに行っても異邦人だから」という意識が、フットワークを軽くしているのかもしれない。

この日はレオニード・フョードロフという歌手(兼ギター)とヴォルコフによるデュオ。ヴォルコフは時々ピアノも弾く。彼らのCDは実は火曜日に買っていたので、大体の雰囲気は想像できた。フョードロフの荒っぽいだみ声と、ヴォルコフの一筋縄ではいかないベースが、聞き手に絡みついてくる。ステージに向かって右側にノリのいい一団(?)が陣取っていて、よく曲名(?)を叫んでリクエストしていた。

ただちょっと参ったのは、開始時間。本来は夜の8時開始だったのが、なぜだかいつまでたっても始まらず、結局演奏が始まったのは8時55分。その間、なぜかアーティストの2人は端のVIP席で、ずっと女性たちと談笑していた。こちらは立ち見席だったので、待ちくたびれてしまったというのが正直なところ。ロシアで時間通りコンサートが始らないことはよくあるけど、さすがにこれは最長記録。

2009年11月8日日曜日

フィルハーモニーでのマーラー~「復活」編

グスタフ・マーラー 交響曲第2番「復活」
ワシーリー・シナイスキー指揮、サンクト・ペテルブルグ交響楽団、ミハイロフスキー劇場オペラ合唱団ほか

11月8日 フィルハーモニー大ホール 19:00~


ペテルブルグのフィルハーモニーのコンサートは、いくつかのテーマごとのシリーズになっていて、今シーズンはその中にマーラー・シリーズがある。ここには専属のオケが2つあるが、その2つによってマーラーの交響曲のうち、1から6番までがすべて演奏されるというものだ。実はマリンスキーのほうでも、今年の末から来年の春にかけて、マーラーの交響曲が全部取り上げられることになっている。こちらはすべてゲルギエフが指揮する。ロシア人って、そんなにマーラーが好きなのか??マーラー・チクルスを両方でやるぐらいなら、どちらかでブラームス・チクルスをやってほしいのだけど。

それはともかくとして、今日演奏されたのは2番「復活」。マーラーは小6の時に初めて聞いて以来(有名なワルター指揮、コロンビア交響楽団による1番のレコード)、ずっと好きな作曲家だけれども、何番が好きかはコロコロ変わっている。最初は1番で、その後5番になって、その後は6番になったり「大地の歌」になったり…。でも最近は2番が好き、というわけで今日聞きにいった。今日のオーケストラはフィルハーモニーの通称「第2オケ」、Академический симфонический оркестр филармонии。前にも書いたような気がするけど、このオケ、個人技はともかく、アンサンブルを整えるのが下手というイメージがある。今日聞いても、そのイメージは変わらなかった。いや、今日はソロもちょっと危なかったような。

シナイスキーは早めのテンポで(全体で80分弱。間違いなくCD1枚に収録可能)シャープに決めたかったようだけれども、オーケストラがあちこち事故を起していて、なかなかそうもいかず。マーラーの複雑なスコアが整理しきれていない。冒頭からいきなり木管が吹き損ねるし。ロシアのオケにありがちな話だけれども、リハーサルの時間が足りなかったんじゃないだろうか。これだったら、札幌にいたときに聞いた、札響の500回記念定期演奏会での「復活」のほうがはるかに良かったと思った次第。「芸術の都」と呼ばれるペテルブルグに来て、札響の株が自分の中でどんどん上がっていくのは、複雑な気分。

2009年11月7日土曜日

マリインスキーの描く「中国」~ストラヴィンスキーの「ナイチンゲール」ほか

イーゴリ・ストラヴィンスキー オペラ=オラトリオ「エディプス王」
同上 歌劇「ナイチンゲール」

ミハイル・アグレスト指揮、マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団、ほか

11月7日 マリインスキー劇場 19:00~


ストラヴィンスキーの「エディプス王」はちょっと思い入れのある作品で、サイトウ・キネン・フェスティヴァルで収録された映像を子どものころ見て、強いインパクトを受けた。親からは、変な眼で見られたが(苦笑)。ただ思い入れがあるせいか、今日の演奏はいささか期待外れ。むしろ初めて聞く「ナイチンゲール」のほうが、楽しかった。ただしそれは、演出が楽しかったということ。

「エディプス王」は、歌手たちがラテン語に苦労していたようだったし、オーケストラの音もイマイチパッとしない。エピローグなんて、もっと派手にトランペットのファンファーレを鳴らしてくれたほうが好み。歌手とオケのアンサンブルも、ところどころずれる。演奏会形式だったら、もっと合っただろうが、これがオペラ形式で演奏する難しさか。エディプス役のティムチェンコの声は柔らかくて、それ自体は好きだったけど、威厳はあまり感じない。若くして大任を背負わされた王という感じである。

「ナイチンゲール」のほうは、ほとんど主役のコロラトゥーラを聞くためのような作品で、今日歌っていたティフォノヴァも悪くはなかったけど、でももっと上がありそうな気がする。それよりも楽しかったのは演出。カメラを持ってきて、カーテンコールだけでも写せばよかったとちょっと後悔したほど。昔の中国が舞台だけれども、京劇を模したと思われる衣装を着けていて、これが意外と頑張っていた。もちろん京劇そのものの衣装とは違うけれど、何となく雰囲気でデザインしたのではなく、ちゃんと勉強した跡がある。日本から来たものとして、それほど違和感はなかった。時々失笑してしまうような振る舞いがあったけれど(お辞儀のしかたとか)、まあいいでしょう。

舞台には黒と白と黄色のすだれ(らしきもの)が垂れさがっていて、よく見るとそれぞれ「死」「生」「富」と書いてある。またナイチンゲールの衣装には、胸のところに「生」と書いてある。場面によって白と黄色のすだれが上がったり下がったりして、オペラの方向性を暗示していた。漢字が読める人には分かりやすい演出だが、ほとんどのロシア人は気がつかなかったのではないか。でも関係のない漢字を演出で使われるよりは、ずっといい。

2009年11月6日金曜日

私的ジャズ週間~ペテルブルグでジャズを聞く


この一週間、気が付いたらジャズ漬になっていた。

モスクワでライブ・ハウス「ドム」に行って以来、ペテルブルグでもライブ・ハウスに行きたいなと思っていたものの、バタバタしてなかなかその機会が訪れず。近所にライブ・ハウスがあることは、知っていたのだが。そうこうしているうちに10月ももう終わりとなったので、とうとう10月30日に「今日行こう」と行くことにした。

行ったのは、JFCというジャズ・クラブ。立ち見で200ルーブル、座りたければ400ルーブル。お酒やコーヒーなどの値段は、そこらへんのバーと変わらない。むしろ安いぐらいかも。聞いたのは、アンドレイ・コンダコフ・トリオ。ピアノ、ベース、ドラムスという一般的な編成で、ノリのいいジャズを奏でていく。曲は彼らのオリジナル。3人とも上手いが、特にベースの人が上手い。時々見事な超絶技巧を見せる。指の動きが恐ろしく早いが、音がかすれることがない。音程も正確。もちろん、リズム感は抜群。近所のクラブにこんな上手い人が出演しているなんて知らなかったなあと思いながら聞いていると、休息前のメンバーの紹介で、ベースはウラジーミル・ヴォルコフだと言う。はっ!?ウラジーミル・ヴォルコフって、あのCDをいっぱい出しているヴォルコフ!?お店の人に確認してみると、そのヴォルコフらしい。

実はモスクワでロシア・ジャズのCDを集めはじめてから、ヴォルコフというベーシストに着目するようになったのだが、まさか近所のライブ・ハウスに出演しているとは思いもよらなかった。何たる不覚!!どうりで上手いわけだ。この人のCDは日本ではあまり手に入らないが、間違いなく現代ロシアを代表するジャズ・ベーシストだと断言できる。

JFCでは一枚300ルーブルでロシア・ジャズのCDも売っていて、JFCオリジナルの2枚組もある。どうせまた来るだろうと思いつつ、CDを3枚買って帰る。

JFCに行ったのが金曜日で、次は日曜日、ショスタコーヴィチ名称フィルハーモニーでジャズのコンサートがあると言うので、出かけた。ペテルブルグにおけるクラシックの殿堂でジャズを聞くのも面白いと思ったのだ。実はこのコンサート、ピアノ、ベース、ドラムスのメンツは金曜日と同じ。そこにギター、ヴィブラフォン、トランペットが変則的に加わる。ここでも彼らのオリジナル曲が中心で、私が知っていた曲はセロニアス・モンクの「べムシャ・スイング」だけだった(もともとジャズのナンバーなんてそんなに知らないけれど)。

前半は聞いていてイマイチ乗れず、「やっぱりジャズはライブ・ハウスで聞くのに限るのかなあ。でも昔、大阪のザ・シンフォニー・ホールで聞いたW.マルサリスとリンカーン・センター・ジャズ・オーケストラの演奏は楽しかったなあ」と勝手なことを考えながら聞いていたが、後半は面白かった。特にドラムスを欠いて、ピアノ、ベース、トランペットでやったいささかフリーな雰囲気の演奏が、緊迫感があって面白かった。実は同じメンバー(ピアノ:アンドレイ・コンダコフ、ベース:ウラジーミル・ヴォルコフ、トランペット:ヴャチェスラフ・ガイヴォロンスキー)によるCDを持っていて、家に帰って聞いてみたが、家で聞くとそれほど面白くない。CDと実演の違いなのか、曲の違いなのか。

それはともかく、これに味をしめて水曜日、ロシアは休日だったこともあって、もう一回ジャズを聞きに行くことにした。今度はジャズ専用のフィルハーモニーである。実際に足を運んでみると、「国立ジャズ・フィルハーモニー」と入口に書いてある。国立でこんなものを作っているのだ。

中に入ると、お客がみんな着飾ってきている。チケット代は800ルーブル。クロークにコートを預けた後、高級ディナーショーでもやるような会場に案内された。客の年齢層も、こちらのほうが高そうだ。飲んでいるのも、おしゃれなカクテルだったり(JFCはビール)。まさしく「大人の世界」。JFCの延長のノリで来た私は、すっかりたじろいでしまった。

でも演奏を聞いているうちに、そうした会場のことはあまり気にならなくなった。この日の演奏は、レニングラード・ディキシーランドというグループだったが、名前からして分かるように、彼らはクラシックなジャズの名曲を取りあげる。その点でも、JFCとは対照的。もう結成から半世紀が過ぎていて、都市の名前が変わっても、グループの名前は変えなかったようだ。さすがに演奏者の年齢層は高そうだが(クラリネットの人だけ若そうだった)、音だけ聞いていればそんなことには気がつかないほど、演奏は若々しい。曲も親しみやすいので、安心して聞いていられる。個人的にはバンジョーのおじさんの、だみ声のヴォーカルが気にいった。

この会場、客席の後ろにダンス用の空間があり、そこでフィルハーモニーのプロのダンサーが曲に合わせて踊る。別にプロのダンサーだけではなくて、踊りたければ普通の客も踊っていい。曲によっては、所狭しと何人もの人が踊っていた(なぜか私の隣に座っていた女性が、何度もダンスに誘われていた)。800ルーブルだとそう頻繁には来れないけれど、でも月に1,2回は来てもいいかも。

というか、クラシックのコンサートに行きまくっている上にジャズ通いまで始めてしまうと、収拾がつかなくなる気がするのだが…。

*写真はジャズのフィルハーモニーで踊りに興じる人たち。あえて、ピンボケした写真を掲載。

2009年10月25日日曜日

ペテルブルグのサカリ・オラモとフィンランド放送交響楽団

フランソワ=ジョセフ・ゴセック 「共和制の勝利」
カイヤ・サーリアホ 「Leino Songs」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第3番変ホ長調「英雄」

ヤン・シベリウス 「悲しきワルツ」(アンコール)ほか一曲

サカリ・オラモ指揮 フィンランド放送交響楽団、
Anu KOMSI(ソプラノ)
10月25日 フィルハーモニー大ホール 19:00~


別にオラモが聞きたかったわけでも、マニアックなプログラムに特別惹かれたわけでもなく、単に「ロシア以外のオーケストラが聞きたい!」という動機で出かけたコンサート。ペテルブルグって地元のオーケストラは耳にたこができるぐらい聞けるかわりに、国外のオーケストラを聞ける機会はそう多くない。じゃあモスクワには国外のオケが来るかというと、そういうわけでもなそうなのだが。オラモについては、名前は知っていたけど、今までCDでもラジオでもちゃんと聞いたことがなかったので、これといったイメージがなかった。どんな指揮者かお手並み拝見と思っていたら、いきなり鮮烈な赤い蝶ネクタイをして出てきたのでビックリ。今までいろんな指揮者を見てきたけど、これは初めて(笑)。

一曲目のゴセックは、今回初めて知った作曲家。よくこんなのをアウェイのコンサートで取りあげるようなあと思う。プログラムを買いそびれてしまったが(なぜか今日は、ちょっとしか用意していなかったらしい)、「共和制の勝利」とは、フランス革命を賛美したオペラを基にした組曲らしい。演奏のほうは、明らかに古楽奏法を意識した響。ティンパニなどに端的に表れている。ただし配置は両翼ではない。でも全体として中途半端な印象を与えず、小気味いい。オラモって、こんなことができる人だったのか。

二曲目はサーリアホ。オーケストラの色彩の変化、それに溶けこむ声の扱い方、うるさすぎない不協和音がちょうど好みで、いい曲だと思ったが、指揮者が響をややコントロールできていない印象あり。慣れないホールで戸惑ったではないか、という気もする。あと、前の席に座っていたおばちゃんたちが、退屈したのか時々小声でしゃべっていたのが邪魔。退屈するのはしょうがないとしても、黙っててくれないかな(ロシアの聴衆に、そんなマナーを求めるのは無理かもしれないけれど)。

三曲目のベートーヴェン(やっと「まともな」曲)も、やはり古楽の影響を意識させる演奏。でもこちらはゴセックの時と違って、演奏の方向性に迷いが見られる気がした。部分部分の響かせ方は面白いのだが(特に第二楽章の中間部とか見事だった)、最終的に「英雄」をどういう曲として提示したいのかが、見えてこない。さっそうと快速で押し切るのか、昔のように巨匠風の堂々たる交響曲とするのか、それとも…?この方向性の定めにくさが「英雄」の難しいところだと思う。3年ぐらいしてからもう一度彼らの演奏を聞いてみれば、いい演奏になっているかもしれない。

アンコールはシベリウスを2曲。「悲しきワルツ」と、もう一曲は曲名を聞きのがした。割合サラッとした演奏。

今回は、ものすごく満足というわけではないが、機会があればまた彼らの演奏を聞いてみたいと思わせる演奏会だった。

プロコフィエフの「賭博師」

セルゲイ・プロコフィエフ 歌劇「賭博師」
パヴェル・スメルコフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団、ウラジーミル・ガルジン(テノール)ほか

10月24日 マリインスキー劇場 19:00~


プロコフィエフ25歳の時のオペラ。原作は同名のドストエフスキーの小説。文豪が、実は賭博にはまってどうしようもなかったという笑い話とともに語られる作品である。原作は読んだことがないけれど、ネットであらすじを確認して、見にいった。でもその必要はなかったかも。というのも、後半、かなり独自の筋書きになっているのだ。

ネットでの情報が正しければ、原作にあるはずの「オチ」が完全になくなって、悲恋の物語になっている。いかにもオペラっぽい展開。原作を確認したいところだけれども、原語で読むのは面倒くさいなあ(←不届きもの)。原作を読めば、若きプロコフィエフの嗜好が分かりそうな気がするが。

音楽は、次の「三つのオレンジへの恋」に通じるようなサウンドである。もうちょっと実験的な響きがするかと予想していたけれど、意外と聞きやすい。音楽自体は「三つの~」のほうが好きだけれども、「賭博師」も25歳で書いたことを考えれば、なかなか充実した作品であると言える。ただこの曲、主役のテノールがほとんど出ずっぱりで大変である。

初めて聞く曲なので、はっきりと良し悪しは断言できないけど、歌手もオーケストラも作品の面白さを感じさせるレベルには達していたと思う。マリインスキー劇場の場合、そのレベルにはすぐに達するのだよね。問題はその先なのだが…。

2009年10月23日金曜日

平原綾香 in St. Petersburg

10月22日 ミュージック・ホール 19:00~

先週、日本総領事館の前を通りかかると、何やら日本人のポスターが。よく見ると「Хирахара Аяка」と書いてある。あれ、平原綾香がこの街に来るのか!?というわけで、家に帰ってネットで調べてみると、最前列の席で600ルーブル。これは安いというわけで、行くことに。普段クラシックとジャズしか聞かない人間が、600ルーブル(日本円だと2000円強といったところか)で最前列に座るなんて、ファンの方々から怒られそうだが。ちなみに今回のコンサート、大阪市とサンクトペテルブルク市の姉妹都市提携30周年を記念したイベントの一環ということらしい。

彼女の場合、デビュー・アルバムが「Jupiter」だったし、最近も「My Classics!」なるアルバムを出しているぐらいだから、クラシック・ファンとして多少の親しみは抱いていたが、歌声自体はラジオなどで何度か聞いたことがあるぐらいだった(スミマセン…)。その時は、「年に似合わない渋い声だなあ」という印象しかなかったけれど、実際に会場で聞いてみると、ラジオなんかで聞くよりずっと力強い歌声で、「この人のうまさは本物だ!」と恐れ入った次第。高音域でもかなり音が伸びやかで、それも凄い。間違いなく、生でしか味わえないものを持っている人だと思う。

今回はオーケストラ(指揮者とオーケストラの名前は失念)をバックにして、「シェヘラザード」「仮面舞踏会」「Jupiter」などクラシックのカバーに、「星つむぎの歌」など日本の歌を織り交ぜた全14曲のプログラム。最後はロシア人向けに「百万本のバラ」。途中まではもちろん日本語だったけど、最後はロシア語で歌うことにも挑戦。ゲルギエフなどと違って(?)、客席に最高のものを届けようとするプロとしての矜持がはっきり出ていた。

会場は1500席あるホールだったが、ほぼ満席。日本人も結構いたが、もちろん大半はロシア人。平原綾香のCDなんてロシアでは入手困難なのに、どこから集まってきたのだろう?お客さんの反応もとても良くて、最後はスタンディングオべーション。彼女自身も今回のコンサートに満足したらしく、また来たいと言っていた。今回のコンサートをきっかけに、彼女は活動の場を海外にも広げることになるのだろうか?彼女が新たなステップを踏みだす現場に立ちあえたとすれば、一観客としてとても嬉しい。

ゲルギエフの「戦争と平和」を聞きにいったものの…

セルゲイ・プロコフィエフ 歌劇「戦争と平和」
ワレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー劇場管弦楽団ほか

10月19日 マリインスキー劇場 19:00~


正直なところ、ペテルブルグに来て一番の期待外れは、ゲルギエフの指揮するマリインスキーであった。響は確かに非常に洗練されているし、ソロのうまさには舌を巻くこともしばしばだが、聞いていて興奮することがないのである。特にワーグナーの「リング」は退屈だった。あれで私の中のゲルギエフに対する評価は、格段に下がったと言っていい。でもこの人たちがもし本気になったら、さぞかし凄い演奏になるのでは、という予感は捨てきれずにいる。

プロコフィエフはおそらくゲルギエフが特に力を入れている作曲家だし、「戦争と平和」はテーマがテーマだけに、ゲルギエフもいつもよりは力を入れてくれるのではないか、とひそかに期待して見にいったが、これまた思いっきり期待外れ。「リング」の時もそうだったが、ゲルギエフはこちらの期待と反比例することが多い。期待しすぎということか。

このオペラは二幕構成で、第一幕は「平和」。20世紀のクラシックらしからぬ美しい旋律がたくさん出てくるが、起伏に乏しく、聞いていてどうも退屈である。こう言っては何だが、「エフゲーニ・オネーギン」(チャイコフスキー)の粗悪なコピーにしか聞こえない。実を言うと第一幕に退屈して、幕間に帰ってしまった。

期待外れだった理由は、おそらく予習用に買ったCDにもあるのだろう。今手元にあるのは、マルク・エルムレルがボリショイ劇場を指揮して1982年に録音したものだが、この演奏は「プロコフィエフってロシアのワーグナーだったのか!?」と言いたくなるぐらい、冒頭からテンションが高い。これだと第一幕も十分楽しめる。ところがゲルギエフは逆に、プロコフィエフの抒情的な側面を強調したかったようだ。その方向性自体はいいと思うのだが、緊張感が足りない。もちろん彼らは何度も演奏しているので技術的には問題ないのだが、それが悪い方向に出て「マンネリ化」の印象を受ける。熟知した曲であってもしつこいぐらいリハーサルを重ねたムラヴィンスキーなどとは対照的。

ゲルギエフの演奏に、「感動」する日は来るのだろうか?

2009年10月16日金曜日

マリインスキー劇場で聞くブリテンのオペラ―「ねじの回転」

ベンジャミン・ブリテン 歌劇「ねじの回転」
パヴェル・スメルコフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団ほか
10月13日 マリインスキー劇場 19:00~


私の好きな曲に、三善晃作曲の「響紋~オーケストラと児童合唱のための」というのがある。12分ほどの曲で、「かごめかごめ」を歌う児童合唱の上に、不協和音をかき鳴らすオーケストラがかぶさる曲だ。ここで歌われる「かごめかごめ」は、あたかも幽霊の歌声のように聞こえる。曲のテーマが「死者の呼びかけに対する生者の応答」だけれども、そこで「かごめかごめ」を使うという発想が炯眼だと思う。

なんでこんなことを書いているのかというと、子どもというのは、実は「あの世」に近い存在なのかなと思うことがあるからだ。今回見た、ブリテンのオペラ「ねじの回転」も、やっぱり「あの世」と交信する子どもの話ではなかったか。

原作はヘンリー・ジェイムズの有名な小説だけれども、恥ずかしながら未読(原作についてはこちら)。原作では出たかどうかはっきりしない幽霊は、オペラでは明確に登場する。むしろ、幽霊2人と生きている大人2人が、姉と弟の子ども2人を取りあう話だと言っていい。ブリテンが、原作と違って、幽霊2人をはっきりと登場させたのは、舞台化の都合上というより、生と死のあいだで引きさかれる子どもを描きたかったからではないか。もちろん大した根拠があるわけではないけれど、今回初めて「ねじの回転」を見て思ったのは、そういうこと。

歌手も全部で上記の6人しか登場しないが、その中では姉役のラリサ・エリーナが秀逸だった。まだティーンエージャ―だと思われるが、実によく通る声で見事だった。後半など、長女の出番はまだかなと楽しみにしていたほど。今後の成長が楽しみ。ほかには、執事の幽霊役のアンドレイ・イリュシニコフがピーター・ピアーズを思わせる声で、ブリテンの世界にピッタリであり良かった。歌手は総じて、いささか発音の明晰さは欠いていたかもしれないが、ブリテンの世界は上手く描けていたのではないかと思う。

このオペラ、室内オペラと言われるぐらい演奏者が少なくて、オーケストラの奏者が17人+指揮者。当然ソロが多いわけだけど、さすがにここのオケは上手い。

問題は観客。空席が目立ったのはしょうがないにしても、全曲の最後で最後のピチカートが鳴る前に拍手が始まってしまい、最後の音が聞こえなかった。指揮者が振りおわるまで待とうよ…。

2009年10月6日火曜日

ゲルギエフ、謎のコンサート

ベラ・バルトーク 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽

イーゴル・ストラヴィンスキー バレエ「カルタ遊び」

リヒャルト・シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」

ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団

10月5日 マリインスキー・コンサートホール 13:00~

2日に、マリインスキー劇場に勤める知人から電話がかかってきて「ゲルギエフが突然、今度の月曜日の昼にコンサートをやることを決めました。チケットは確保してあるので行きませんか」と誘われた。曲目は、バルトーク、ストラヴィンスキー、R.シュトラウスだと言う。バルトークとストラヴィンスキーは大好きな作曲家だし、R.シュトラウスは大好きというわけではないが、でもゲルギエフに似合いそうだ。というわけで、本来の業務をほったらかして行くことに。でも家に帰って、ネットでプログラムを確認してビックリ。何だ、この難曲プロは!?それも、普段彼らが演奏しない曲ばかり。音楽監督の思いつきで、なんでこんなプログラムのコンサートが、急に実現するのだ。しかも平日の真昼間から。

実際に行ってみると、さすがに満席とはいかないものの、客席はまあまあ(3分の2ほど?)埋まっていた。どこから来たのだろう、この人たちは(て、私に言われたくないよね)。ただ例によって、13時開始にもかかわらず、リハーサルが長引いたらしく、13時10分ぐらいまで会場には入れなかった。音楽が始まったのは13時半。まあ、このホールで時間通りに演奏が始まったことなんてないけど。

マリインスキー劇場のオケはとても上手いけれど、明らかに練習不足の時も多いので、期待半分、不安半分だった。聞いてみた結果は、バルトークは×、ストラヴィンスキーは○、R.シュトラウスは△。

バルトークは、指揮者も含め、明らかに練習不足。なんでよりによって、バルトークの中でも最も難しい「弦、チェレ」を選んだのだろう?この曲、どんなに上手いオケでも、相当練習しないと聴衆に聞かせられるレベルに達しないのに。「弦、チェレ」は昔、先日亡くなった若杉弘が大阪フィルを振ったのを聞いたことがある。その時、大フィルももちろん悪戦苦闘していたが、若杉弘が見事なバトンテクニックで、難所を乗り切っていたのが印象的だった。この曲は、特にライヴの場合、スラスラ弾かれるよりも、難しいポイントでオケが崩壊せずに乗り切れるかどうか、そのスリルを楽しむのが醍醐味と言っても、あながち間違いではあるまい。ただ今回は、指揮者自身が未消化で、頼りにならない。むしろオケを救っていたのは、ティンパニ。前から、この人上手いなあと思っていたが、今回も1人、正確なリズムを叩きつづけて、それを基準に「あ、今ここにいるのね」という感じで、崩壊しかけたオケが立ちなおるといった具合だった。彼がきちんと叩いていたからオケが崩壊せずに済んだようなもので、彼がいなかったら、大変なことになっていただろう。

休息後、ストラヴィンスキーの「カルタ遊び」が演奏されたが、実は私は今まで、この曲の魅力が分からなかった。いかにも新古典主義期のストラヴィンスキーらしく、耳になじみやすいメロディーはあるが、聞きどころがどこなのか、つかめない。しかしゲルギエフの演奏では、和音の面白さ、ソロの妙技などが浮びあがってきて、割と面白く聞けた。180度イメージが変わったとはいわないまでも、この曲を見直すきっかけにはなったように思う。もう一度、彼の指揮で聞いてみたいし、ほかの新古典主義期の作品(「プルチネルラ」や三楽章の交響曲など)も、聞いてみたい。

最後はR.シュトラウスの「英雄の生涯」だったが(オーケストラ、よく体力持つよなあ…)、これは可もなく不可もなくといったところか。R.シュトラウスの場合、上手いオケが音符を正確に並べてくれればひとまず満足できる。その点、ゲルギエフとマリインスキーの演奏も悪くはないのだが、6月に聞いたアシュケナージ/ペテルブルグ・フィルの演奏のほうが、より輝かしく、ヴァイオリン・ソロも艶やかだったような気がする。そりゃあ、指揮者としてオケをコントロールする能力は、ゲルギエフのほうが上だろうけどさ。

タダでチケットをもらったこともあり、大きな不満はないのだが、でもなんでゲルギエフが急に、こんなコンサートをやりたくなったのかは、最後まで分からなかった。今後のレパートリー拡大に向けて、ちょっと腕試しをしたくなったのか?

2009年10月4日日曜日

息子が振るショスタコーヴィチ

ドミートリ・ショスタコーヴィチ 祝典序曲
同上 ピアノ協奏曲第1番ハ短調
同上 交響曲第5番ニ短調
マクシム・ショスタコーヴィチ指揮、サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニー管弦楽団、イリーナ・チュコフスカヤ(ピアノ)

10月4日 D.D.ショスタコーヴィチ名称フィルハーモニー大ホール 19:00~


先の日本の総選挙の際、「世襲」ということが話題になったようだけれど、クラシックの世界にももちろん、親子2代続けて音楽家という例は、いくらでもある。ただこちらはれっきとした人気商売なので、人気が出ないことには、親がどんなに有名でもどうしようもない。

ちなみに作曲家ドミートリ・ショスタコーヴィチの息子、マクシムは指揮者になったものの、「親の七光り」が通じなかった典型例みたいに言われて、こんな感じでおちょくられていたりする。指揮者としてよりも、ショスタコーヴィチの家庭での素顔を証言してくれる人として、珍重されている面も無きにしも非ず。そのマクシムが、父の作品をたくさん初演した名門オケを使って、父の名前を冠したホールで、どのように父の作品を聞かせてくれるのか、興味本位で聞きにいった。ただロシアでもそんなに人気がないのか、3分の2ほどしか客席が埋まっていない。東京だったら、どの程度埋まるだろう?

でも結論から言えば、「あれ、結構やるじゃん」。「親の七光り」でペテルブルグ・フィルを「振らせてもらっている」のかと思ったけれど、これだけオーケストラをバンバン鳴らしてくれれば、文句ない。

最初の祝典序曲のファンファーレからして、胸がスカッとするような音。続く木管も見事。やっぱりこのオケ、上手い。最後までバンダは入らなかったけど、全く物足りなさを感じさせなかった。マクシムの振り方は、あまり器用な気はしないけれど、でもなんだか楽しそうである。

ピアノ協奏曲は、ピアニストも上手かったけど、それ以上に上手かったのがトランペット・ソロ。ペテルブルグ・フィルの首席の人(残念ながら名前は未確認。祝典序曲は休んでいた)が吹いていたが、硬質ながら、実によく飛ぶ音。この人、相撲取りみたいに肥っていて、前からオケの中で吹きまくっていたので印象に残っていたが、今日はほとんど主役状態。最後のほうは、「ピアノと弦楽伴奏つきのトランペット協奏曲」になっていた。作曲者や指揮者の意図はともかくとして、これはこれで面白かった。

メインの交響曲第5番も、見事。第3楽章のような、泣くような音楽も良かったけれど、どちらかというとマクシムの本領が発揮されるのは、第4楽章の両端部のように、派手な部分か。この曲の最後のトランペット・パート、高音が続くので、有名なオーケストラですらへたばっていることが多いのだが、今日は例の首席奏者も加わって、ちゃんと鳴っていた。今までかなり、この曲のCDを聞いてきたけど、ここまではっきりと、最後まで金管が鳴っていたのは初めてかも。

なんだかトランペットばかりが活躍していたような書き方になってしまったが(苦笑)、もちろんオケ全体が素晴らしかった。特に今日はコントラバスの真上に座っていたので、オーケストラの重心が低く聞こえたのが、好印象につながったのかもしれない。

客席はいささか寂しかったものの、終演後はスタンディングオべーションが起こっていた。こちらの人は、日本に比べて割合すぐに立ち上がるとはいえ、名演だったことには間違いなさそうだ。

2009年10月3日土曜日

ウラジーミル・フェルツマンのリサイタル

ヨハン・セバスチャン・バッハ パルティータ第1番変ロ長調
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第8番ハ短調「悲愴」
モデスト・ムソルグスキー 「展覧会の絵」
ウラジーミル・フェルツマン(ピアノ)

10月3日 マリインスキー・コンサートホール 19:00~


実はロシアに来てから、初めて行くソロ・ピアノ・リサイタル。オーケストラやオペラのほうにばかり気が行って、ソロ・リサイタルに行く機会がなかった。フェルツマンを聞くのも初めて。CDでも聞いたことがない。

フェルツマンのことは、ネットでチラチラと評判を見て、なんだか渋いピアニストのイメージがあったが、実際に聞いてみると、華やかな部分にも事欠かない。そして、とても柔らかい音の持ち主だ。

バッハのパルティータは何べんも聞いていて、今日の演奏にも何の不満も感じなかったが、実はベートーヴェンの「悲愴」を聞くのは初めて。先日のモーツァルトに続いて、偏食ぶりが露呈した。

確かにベートーヴェンの交響曲は好きだけれども、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏はあまり積極的に聞く気になれない。ベートーヴェンの持つ、「意志の力」みたいなものがむきだしになっている気がして、家では落ちついて聞けないのだ。その点、オーケストラ曲のほうが派手で楽しめる。今日、「悲愴」ソナタを生で聞いて、魅力的な曲だとは思ったけれども、まだ家で聞く気にはなれないとも思った。私が、ベートーヴェンのピアノ・ソナタや弦楽四重奏の世界に入るのは、いつのことだろう。

一番フェルツマンにはまっていると思ったのは、最後の「展覧会の絵」。私もほかの人と同じく、ラヴェルによる管弦楽版からこの曲に入った口だが、先にオケ版を聞いてしまうと、オリジナルのピアノ版が、なんだか習作のように聞こえてしまう。しかしフェルツマンは、ピアノならではの色彩感を見事に引きだしていて、これがオリジナルなのだということを思いださせてくれた。和音の響かせ方が、とても上手い人だと思う。CD録音もしているみたいだけど、この演奏の魅力が、ちゃんとマイクに捕らえられているだろうか。

次はドビュッシーとか、どうだろう。面白い演奏になる気がするのだが。

バシュメットとモスクワ・ソロイスツinペテルブルグ

ベンジャミン・ブリテン:シンプル・シンフォニー
ジョン・ウールリッチ:ウリッセの目覚め
ブリテン:ラクリメ
アルフレート・シュニトケ:モノローグ
ヨーゼフ・ハイドン:交響曲第104番ニ長調
ユーリ・バシュメット指揮&ヴィオラ、モスクワ・ソロイスツ
10月2日、マリインスキー・コンサートホール、19:00~


モスクワからペテルブルグに戻った直後に、モスクワの演奏家のコンサートを聞くという、なんだかおかしなことに。こちらではしばしばあることだが、19:00開演なのに19:10ごろまでリハーサルをしていて、結局演奏会が始まったのは19:25だった。

実を言うと、疲れていたので最初の2曲は半ば寝ていた。3曲のブリテンからまともに聞きだしたのだが、この曲、結構抽象的で難しい。他の演奏は聞いたことないけれど、今回はそういう印象を受けた。ブリテンという人は、20世紀の作曲家にしてはかなり親しみやすい曲を書いた人だし、「ピーター・グライムズ」とかとても好きなオペラだ。それでもこの人、時々ひどく抽象的な印象を与える曲を書く。ラクリメもその一つかも。

休息後のシュニトケは、さすがバシュメットの十八番である。どこをどう鳴らせばいいのか、すべて把握している。皮肉にも、ブリテンよりシュニトケのほうが分かりやすい音楽になっていた。ただそれ以上に良かったのが、最後のハイドン。これは意外だった。上手い団体なので、ハイドンのような「簡単な」曲は、かえって面白くない演奏をするのではないかと思っていたが、とても躍動感があって、楽しかった。ハイドンが曲のいろんなところに用意した仕掛けも、浮かび上がってくる。いっそのこと、一度ハイドンだけのコンサートを、彼らの演奏で聞いてみたいぐらいだ。

ロシア・ナショナル管弦楽団のモーツァルトとベートーヴェン

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調
ミハイル・グラノフスキー指揮、ロシア・ナショナル管弦楽団、エフゲーニ・ブラフマン(ピアノ)
9月30日 オルケストリオン(モスクワ) 19:00~

せっかくなので、モスクワのオーケストラもどこか聞いておこうと思い、プログラムも演奏家も一番無難そうなこれを選んだ。実はこれだけクラシックを聞いてきながら、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番をちゃんと聞くのは、これが初めて。今まで、いかに偏食してきたかが分かる。

モーツァルトは最初のシンコペーションが不安定で、大丈夫かなと思わせたが、徐々に揃ってきた。ライブにはよくあることだけど、特にオーケストラがしり上がりに調子が良くなってきた感じである。ピアニストはタッチが非常に明確。よく歌う。

ベートーヴェンは両翼配置ながら、弦楽器はかなり多め。それでもリズムが重たくなりすぎていなかったのは評価したい。曲のよさは十分伝わる演奏だったが、ちょっと詰めの甘さを感じた。たとえば、弦楽器の4分音符の打ち込みとか、やや弾き飛ばしている感じ。第2ヴァイオリンのすぐ横に座っていたので、余計耳についたのかも。

ホールは小規模、アットホームな感じで、それはいいのだが、もう少し残響があったほうが、個人的には好みである。たとえばマリインスキーのコンサートホールで今回の演奏を聞けば、もっと印象は良かったかもしれない。

ライブ・ハウス「ドム」にて

9月20日:ラディヤ・バアトゥ&シモナ・ヨリ・マカンダ

9月27日:アレクセイ・アイギ&アンサンブル4'33''

ライブ・ハウス「ドム」(モスクワ)

恥ずかしながら、いわゆるライブ・ハウスなるものに行ったのは、これが初めて。クラシック以外の音楽にも興味はあるのだけど、習慣に流れやすい人間であるため、もっぱらクラシックのホールにばかり足を運んでいた。ところが今回、モスクワでCDを漁っていた際、面白そうな場所を見つけたので、行ってみた。実はこの「ドムдом(家、ハウスの意味)」というライブ・ハウス、ロシア音楽好きの間では結構有名らしく、いろいろと実験的な試みも行っているようだ。

2回行って、2回とも面白かったのだが、いざその感想を記そうとすると、言葉が出てこない。クラシック以外の音楽を語る語彙が、自分の中でまだ十分育っていないのだなと思う。吉田秀和が、『音楽の旅・絵の旅』(中公文庫、1979年)の中で、「新しいことが新しいというだけで、意味と持つ時は、(自分の中で)もう過ぎ去った」と書いていたが、今の私にとってはまだまだ、自分にとって新しいということそのこと自体に大きな価値がある。演奏の良し悪し以前に。

特に20日のライブのほうは感想の書きようがなく、不思議な空間に連れ去られた、という言葉しか思いつかないのだが、先ほどネット上にその時の様子がアップされていたのを発見した。

http://rutube.ru/tracks/2399927.html?v=4c20811b4dc7cc76aae2ab742b962b08

27日のほうは、もっと分かりやすく、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、トランペット、トロンボーン、ピアノ、エレキベース、ドラムスというメンバーで、時々編成を変えつつ、ややロック調というか、ポップな感じの音楽を演奏していった。一曲を除いて、ヴォーカルはなし。明らかにケージの「4分33秒」を意識したアンサンブル名なので、もっと「わけのわからない」音楽を奏でるのかと思ったが、実際はとてもノリのいい音楽だった(実のところ、構えていた分、最初はちょっと拍子抜けしたのだが)。最後のほうは、リーダーのヴァイオリン奏者が興奮して飛び上がって弾いていたのが印象的。そうそう、ドラムスの生の響きってこんなのだったよねとか思いつつ、クラシックとは違う「ライブ」の興奮を味わうことができた。拍手にこたえてアンコール、何曲やったかしら?

音楽が生まれる「場」と「精神性」~岡田暁生の近著について

先日、日本からロシアにやってきた友人が気を効かせて(?)岡田暁生の近著『音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉』(中公新書、2009年)を持ってきて、そのまま置いていってくれた。最初に告白しておくと、私は岡田暁生の書くものに対して、どちらかというとネガティヴな反応を示すことが多い。同じ中公新書から出た『西洋音楽史』の描き方についても、事実上仏独伊に限定された描き方に(だから読みやすいのだろうが)疑問に思うところが多かった。でもせっかくもらったので、早速読んでみると、今回は賛同できる部分も結構あったのだが、それでも今まで通り違和感を覚えてしまう部分もあって、いささか複雑な気分である。バーンスタインの言葉を借りれば(DVD「答えのない質問」より)、「大変興味深いが、納得できない本」ということになるだろうか。

まず、どこに賛同できるかというと、特に最初のほう、音楽を聞いた感想を言葉にすることの難しさ、そのモヤモヤ感(こうやってブログを書いていると、いつも感じる)を上手く文章にしてくれていて、こういったところはさすがプロである。また、昨今の音楽産業における作為的な「感動」に対する批判(たとえば27ページ)も、もっと書いてくれと言いたくなるぐらいである。それに、現代の音楽がポピュラー音楽であれジャズであれ、19世紀に確立した「西洋音楽」の影響を大きく受けており、クラシック音楽を研究する社会的な意義が現代でもあるということも、ある程度、納得できる。

とまあ、1つ1つの文章の中には、納得できる部分が多くあるのだが、全体としてみると、読後には違和感が残った。それを乱暴に一言で言いきってしまえば「結局、あんたのクラシックの美学は宇野功芳と大差ないじゃん!」ということになる。こんな言い方をすると、宇野、岡田両氏から怒られそうだが(笑)。もう少し分かりやすくいいかえると、著者が一見、日本の教養主義的なクラシック音楽批評に対して距離を取っているように見えながら、実のところ著者のクラシック批評は、「保守本流」とでも言うべき、昔から日本で言われてきたクラシック音楽の美学と大して変わらないものになっているのではないか、という点に、私は疑問を感じたのである。

私が岡田暁生の音楽観に反発したのは、数年前に北海道新聞の夕刊に載ったエッセイを読んだときである。それは2度あったが、1度目は、もう現代の演奏家に昔のような感動を求めるのは無理だ、というものであり、2度目は日本人の演奏はテクニックは抜群かもしれないが、聞いていて面白くなく、技術的には劣る外国人の演奏のほうが面白い、というものだった。

昔の演奏のほうが感動できた、日本人は技術的には大分向上したかもしれないが…、という批評は、クラシック音楽の批評にある程度目を通してきた人ならば、1度や2度は、必ず目(耳)にしたことがあるはずである。岡田暁生のこの音楽観は、もちろん本書でも継承されていて、「上手い」日本人に対する批判(71ページや215ページ)、シュナーベル(122ページ)やフルトヴェングラー(148ページ~)に対する賛辞と、ブレンデルやポリーニに対する批判的言及(122ページ)などがその例である。

つまり、これまでの日本の音楽批評において「精神性」「深み」などの表現で語られてきた問題が、この本では「意味」「言葉」「場」などの表現に置きかえているだけであって(もちろん、この言い替え自体は重要だとは思うのだが)、著者の音楽観が、著者が距離を取ろうとしている既存の日本のクラシック批評と、それほど違いがあるとは思えないのである。たとえば、「精神性」「深み」という言葉を振りかざし、日本のクラシック・ファンに多大な影響を与えてきた音楽評論家と言えば、宇野功芳が代表格だが(ただし彼の場合、「切れば血の吹き出るような」に代表される肉感的な言葉も同時に多用し、それによって多くのファンを獲得した)、「技術偏重」のポリーニやブレンデルに対する批判、フルトヴェングラーに対する賛辞など、表現方法は違っても、最終的な演奏の良し悪しの判断に、大きな違いはない。あるいは、本書と中野雄『丸山真男 音楽の対話』(文春新書)を読み比べてみると面白いだろう。丸山真男は音楽評論家ではないが、日本の教養人とクラシック音楽の関係を考える上で、興味深い素材を提供してくれている。

著者は「西洋中心主義」やクラシック中心主義に対する批判をおそらく強く意識しており、そのせいか、本書の執筆時にずいぶんとモダン・ジャズを聞きこまれたようだが、私が思うに、著者の問題点は、他のジャンルを聞いているかどうかよりも、クラシック音楽の中で「中心と辺境」を明確に分ける、その観点ではないだろうか(この問題点は、『西洋音楽史』で如実に露呈している)。

そもそも、なぜ私が「昔の演奏家のほうが凄かった」式の批評が嫌いかというと、理由は単純で(いや、実際は私のこれまでの様々な経験の蓄積がかかわっているのだろうけど、今回は省略)、私は昔の巨匠の演奏、中でもその代表格、フルトヴェングラーの演奏に、まともに感動したことがないのである。これは趣味の問題と言ってしまえばそれまでだし、ひょっとしたら今後変わるかもしれないが、フルトヴェングラーの演奏を聞いて「立派だなあ」と思うことはあっても、共感することはない。そこで鳴っている音楽に、自分を一体化させることができないのである。しょせん、別世界で鳴っている音楽なのだ。クナッパーツブッシュも同じである。昔はトスカニーニの演奏もそれほど好きではなかったが、最近、XRCDのような非常にいいリマスタリングを聞いてから、印象がだいぶ良くなった。

さて、本書を読みながら、1つの素朴な疑問を感じた。それは、著者がカラヤンをどのように思っているかという問題である。戦後、クラシック音楽のあり方を変えたのがカラヤンであることは、これまでたびたび指摘されてきたことであり、クラシック音楽の「聴き方=聴き型」を論じるならば、カラヤンを避けて通ることはできないはずである。ところが、なぜか著者はカラヤンを正面から論じていない。すでに多くの論考が発表されているから、不要とでも感じたのだろうか?それとも、どこかほかのところで書いているとか?

カラヤンのことが気になるのは、昔『レコード芸術』で、次のような面白い証言を読んだということもある。ジャンル不詳のユニークなCDを次々と作りつづけるドイツのレーベル、ウィンター&ウィンターの社長兼プロデューサーのステファン・ウィンターが、カラヤンの指揮するマーラーの交響曲第6番を聞いた時のことを回想して、「それは大変見事な演奏でしたが、曲が生まれた「場」を想起させるものではありませんでした。一方、私はCDを作る際、音楽を生まれる「場」を大切にしたいと考え、ジャケットのデザインにもこだわって、聞き手に音楽が生まれる「場」を届けようとしています」と、こんなことを述べていた。確かにウィンター&ウィンターの看板アーティスト、ユリ・ケインが演奏するマーラーなど、一見大胆にマーラーの音楽を換骨奪胎しながら、実はマーラーの音楽の出自を見事に解き明かして、マーラー・ファン必聴の内容となっている。

私はこのインタビュー記事を読んだとき、従来カラヤンの演奏に置いて「精神性の欠如」と言われてきたものは、実は音楽が生まれた「場」を想起させる力の欠如だったのではないか、でもだから、カラヤンの演奏は聴きやすいのではないかと思った。今回『音楽の聴き方』を読みながら、カラヤンの演奏を思いおこしていたが、カラヤンの問題はほとんど触れられず。この点は、著者に聞いてみたい。

ちなみに私は、カラヤンの演奏は「悔しいけれど」好きである。「場」を想起させる力の欠如に危うさを感じつつも、オーケストラをコントロールする抜群の能力に、ノックアウトされてしまうことが多い。

2009年9月5日土曜日

ショスタコーヴィチの未完の交響曲―1945年の断章




しばらくコンサートに行く予定もないので、その間にコンサート以外のことを。

最近ナクソスから、ショスタコーヴィチが1945年に書いたと思われる未完の交響曲の断章が収録されたCDが出て、話題になった。流行(と言っても、ものすごく限られた範囲内での)にすぐ流される私も、i Tunesでダウンロードして聞いてみた(ロシアでもナクソスのCDを購入することは一応可能だが、日本ほど出回っていない)。パッと聞いた感じでは、7番や8番に通じるような鋭さがもう少しほしいと思ったのだが(この印象は曲と言うより、演奏に対する印象かもしれない)、街のCD店でDSCH社の楽譜を見つけたので購入。中の解説を読みながら楽譜を眺めてみると、ショスタコーヴィチ・ファンにはいろいろと興味深い発見がある。

まず驚くのはその巨大な編成。書きだしてみると、以下のようになる。
ピッコロ2、フルート2、オーボエ3、コール・アングレ、Esクラリネット、クラリネット3、バス・クラリネット、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン4、トランペット4、トロンボーン4、チューバ2、ティンパニ、小太鼓、シンバル、シロフォン、弦楽5部
ものすごい張りきって、大交響曲を作ろうとしていたのでは…?しかもこれは同じDSCH社から出ている交響曲第10番の楽譜の解説と併読すればよりはっきりすることだが、どうもショスタコーヴィチはベートーヴェンの交響曲第9番を明確に意識し、合唱と独唱付きの交響曲を書く意思を当初持っていたらしい。ところがこの構想は頓挫。結局出来上がった交響曲第9番は、ショスタコーヴィチの15曲の交響曲の中でも最も小規模なものに。もちろんこれはこれで素晴らしい曲だけれども、ショスタコーヴィチがなぜ当初の構想を放棄したか、その理由は現在のところ不明。

それでもショスタコーヴィチはあきらめていなかったらしく、1947年には手紙の中で、「交響曲第9番ではなく、第10番が7番、8番との三部作をなすようにしたい」と語っているらしい。ところが実際に、第10番が出来上がったのは、スターリンの死後、1953年のこと。これまで交響曲第10番は、スターリンの死後、すぐに書かれたと見られていたし、第一作曲者本人がそのように語っている。現在では評判の悪い『ショスタコーヴィチの証言』の影響もあり、10番というのは「スターリンの死を受けて書かれた交響曲」というイメージが強かったのではないか。

もちろん、本腰を入れて(この言葉もまた曖昧だが)交響曲第10番を作曲したのが、スターリンの死後だと解釈すれば、別に問題はない。ただ(これはナクソス盤の解説にも書かれているようだが)未完の交響曲のモチーフが、やはり未完に終わったヴァイオリン・ソナタを経て、交響曲第10番に使われており、1951年には、この部分を知人にピアノで披露しているらしい。「ショスタコーヴィチをめぐる証言」というのも、ちょっと眉に唾をつけて聞いたほうがいいのかもしれないが、それでも交響曲第10番の萌芽は、これまで考えられていたよりもずっと早く、完成の10年近く前から生まれていたようだ。

ちなみに、未完の断章から10番に受けつがれた部分というのは、ナクソス盤でいうと2分42秒あたりから、クラリネットとオーボエが奏でるメロディー。これが交響曲第10番の第1楽章、練習番号41からに受けつがれる。第1楽章の折り返し地点を少し過ぎたあたりである。

一好事家による比較の印象を述べさせてもらうと、譜面は確かによく似ているのだが、聞いた感じはかなり違う。未完の断章のほうは、やや皮肉っぽさを感じるのに対し、10番のほうは荘厳な悲劇といえばいいだろうか。印象論を続けさせてもらえば、10番の冒頭、チェロとコントラバスで示されるモチーフが、すでに断章から来ているような気がする…、と思ったら、実はこの部分と類似した音の進行が、断章と交響曲第10番をつなぐ位置にある、未完のヴァイオリン・ソナタの冒頭に現れているらしい。探せば、もっといろいろな発見がありそうだ。

何がともあれ、今後の研究の進展に、期待したい。

2009年9月1日火曜日

ロシアのスペイン表象―ミンクスのバレエ「ドン・キホーテ」

レオン・ミンクス バレエ「ドン・キホーテ」

ボリス・エイフマン・バレエ団

8月31日 リムスキー・コルサコフ音楽院 20:00~

ロシアの作曲家って、実はスペインものが好きなのだろうか、と思うときがある。ロシアの音楽で代表的なスペインものと言えば、リムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」だけれど、ほかにもグリンカやグラズノフがスペインにまつわる曲を書いているし、「ショスタコーヴィチとスペイン音楽の関係」なんて研究もあるらしい(研究自体は未見)。チャイコフスキーは、直接スペインにかかわる曲は書いていなかったと思うが、ラロの「スペイン交響曲」に触発されてヴァイオリン協奏曲を書いたり、ビゼーの「カルメン」を絶賛したりしているところを見ると、やっぱりスペインものが好きだったようだ。

ミンクスが作曲したバレエ「ドン・キホーテ」を見ながら、そんなことを考えていた。ミンクスの音楽なんて今まで聞いたことがなかったけれど(実を言うと名前も知らなかった。帝政ロシアの作曲家にこんな人もいたのね)、音楽はそれこそ、バレエ用「スペイン奇想曲」といった感じ。カスタネット等でスペイン風に味付けされたロシアのバレエ音楽。ただし今回のバレエ、演奏は生オーケストラではなくテープだった。こないだの「ロメオとジュリエット」みたいにアマ・オケ並みの演奏を聞かされるなら、テープのほうがいいかも。でも録音のせいかスピーカーのせいか、はたまた座っている席のせいか、なんだかモノーラルっぽい、古びた音がしていたのが少し残念だった。

なんだか文句を書いているけど、でも面白い舞台だった。もしあらすじがウィキペディアにある通りなら、演出家がいろいろ手を加えていることになる。精神病院から始まるという設定は、多くの演出家が思いつきそうだけれど、でもプロローグでのバレエ一般を茶化したような踊りは皮肉が効いていて良かった。確かに中間部ではスペイン舞踏でしっかり名人芸を見せてくれるが、定期的に精神病院の場面が復活する。そして最後は精神病院での乱舞。しかもそこでの音楽は「スペイン奇想曲」を編集して使っている!生オーケストラではなくテープを使った理由は、こんなところにもあったのかもしれない。

もちろん中間部でのスペイン舞踏は、7月に見たスペイン国立バレエの舞踏とは明らかに別物。そういった意味では、典型的な「スペイン表象」。その点で「バフチサライの泉」と比較すれば、ロシア・バレエにおける「表象の方程式」みたいなものが見えておもしろいかも。いや、こういう問題って、探せばすでに誰か研究していそうだけれども。

2009年8月25日火曜日

サロネン in ヘルシンキ

カイヤ・サーリアホ Lumiere et pesanteur

ヤン・シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調

グスタフ・マーラー 交響曲第6番イ短調「悲劇的」

エサ=ペッカ・サロネン指揮 フィルハーモニア管弦楽団、リーラ・ジョセフォウィッツ(ヴァイオリン)

8月22日 フィンランディア・ホール(ヘルシンキ) 19:30~

「あなたが一番好きな曲は?」と問われればストラヴィンスキーの「春の祭典」と答えるだろうが、「では一番好きな「春の祭典」のCDは?」と問われれば、現在のところ、サロネン&フィルハーモニア管弦楽団のディスクを挙げると思う。メリハリが効いて、とても気持ちがいい。このディスクに出会って以来、是非一度聞いてみたかったコンビがヘルシンキに来るというので(ペテルブルグには来ない…)、国境を越えて聞きにいった。もちろんそれだけではなく、ヘルシンキという街自体にも興味があったのだが。結果は、期待通りの快演。

1曲目のサーリアホの曲は、サロネンに献呈された近作だそうだが、変化に乏しく、正直イマイチ印象に残らなかった。いや、「変化に乏しい」というのはおそらく意図的なもので、むしろその微妙な移ろいを楽しむ音楽なのだろうが、一回聞いただけでは聞きどころがつかみづらい。

2曲目はジョセフォウィッツをソリストに迎えてのシベリウスのコンチェルト。ジョセフォウィッツの歌い方はかなり激しいものだが、そのパッションが上手く曲とマッチしていると感じたのは第2楽章。動きのある両端楽章では、ところどころ鋭いフレージングを聞かせてくれたものの、幾分雑な印象を受けてしまった。むしろ見事だと思ったのは、サロネンの指揮。オーケストラが前面に出るところと伴奏に回るところを明確に描きわけて、ソリストを上手に支えていた。案外、協奏曲でこうした「伴奏」をちゃんとしてくれる指揮者って少ない。サロネンは3回もこの曲を録音しているだけに、曲を知りつくしているのだろう。シベリウスのコンチェルトを3回も録音している指揮者など、ほかにプレヴィンぐらいではないか。

休息時間に、ホールのロビーでジョセフォウィッツが公開のインタビューを受けていたが、その中でシベリウスのコンチェルトについて、技巧的に難しいだけでなく、オーケストラがドラマチックに書かれているので、オーケストラとの関係が難しいと語っていた。また作曲家としてのサロネンを「パワフルな曲を書く」と絶賛していたのが印象的だった。彼女はこの春に、サロネンのヴァイオリン協奏曲を初演している。

ちなみに、演奏とは直接関係ない話だが、このインタビューは英語で行われた。驚いたのは、通訳がつかなかったこと。ところが多くの聴衆が周りを囲んで熱心に彼女の話を聞いているのである。フィンランド人って、みんな英語ができるのか!?実は開演前にも、オーケストラの団員2人が出演して、同様のインタビューが行われていたが、やっぱり通訳はいなかった。さすが学力世界一の国(ただ念のため書いておけば、私は日本人も同様に、英語ができるようになるべきだとは思わない)。

閑話休題。いよいよメインのマーラーの6番。サロネンが振っているから当然かもしれないが、マーラーのごちゃごちゃした音響が実にすっきり整理されて聞こえてくる。でも単に整理されているだけでなくて、「これがオーケストラだ!」と言わんばかりに勢いよく鳴るオーケストラ、なかんずく9本のホルンの咆哮は快感だった。終演後、拍手喝采の中サロネンが真っ先に立たせたのもホルンのトップである。ただ曲の特性上、どうしても打楽器や管楽器が目立ってしまうが、個人的に惹かれたのが弦楽器である。ピッチがぴったり揃って1つの音として聞こえてくるのはもちろんのこと、意外と重量感のある濃厚な音色で、この人たちが5番のアダージェットを演奏したらどうなるだろうと、想像せずにはいられなかった。サロネン&フィルハーモニア管弦楽団の音色って、もっとあっさりしたイメージがあっただけに、ちょっと意外な発見。

終演後は観客が総立ち。国境を越えて聞きにきて良かったと満足できた演奏会だった。

2009年8月24日月曜日

サンクトペテルブルグ・アカデミー・バレエの「ロメオとジュリエット」

セルゲイ・プロコフィエフ バレエ「ロメオとジュリエット」

サンクトペテルブルグ・アカデミー・バレエ団

8月21日 アレクサンドリンスキー劇場 20:00~

日本では「サンクトペテルブルグ・アカデミー・バレエ」と呼ばれているようだが、こちらでは「ヤコブソン・バレエбалет Якобсона」という呼び名が一般的なようである。確かに、こちらには「アカデミー~」っていっぱいあるから、固有名詞をつけてくれたほうが分かりやすい。

バレエの「ロメオとジュリエット」は、2001年に大阪で見たことがある。ロストロポーヴィチの指揮で、「オーケストラル・バレエ」と銘打って舞台の真中にオーケストラ(新日フィル)が位置し、その周りでダンサーが踊るというものだった。バレエ団はリトアニア国立バレエ。なんでこんなことをしたかというと、ロストロポーヴィチはオーケストラをバレエの伴奏ではなく、バレエと同等の扱いにしたかったということ。彼によれば、作曲者のプロコフィエフもそれを望んでいたとか。今思いかえしてみれば、これが生のロストロポーヴィチを見た最初で最後の機会だった。結局、彼のチェロは聞くことができず。残念。

「ロストロポーヴィチの証言」って、実はあんまりあてにならないことが指摘されているので、本当にプロコフィエフがそんなことを言ったのかどうかは分からないけれど、でも楽しい舞台だった。やっぱり私は、バレエそのものよりもオーケストラに興味があるから。ところが今回の舞台は、それとは対照的。バレエが主役でオーケストラは伴奏。まあこれが普通なのだろうが、おかげで今頃になってロストロポーヴィチが何をしたかったのか、はっきりと理解できた感じ。

今回はまずオーケストラ(バレエ団の付属?)がヘタクソ。アマオケレベル。いや、日本のアマオケの中にはここよりもっと上手いところがたくさんある。おまけに今回の会場、もともと演劇用の劇場なので、音が全然響かない。ほとんど体育館状態。

でもバレエは確かに上手かった。あれこれ論じる語彙は持ちあわせていないけど、ジュリエット役のダンサーなど小柄な体で可憐に踊り、本当に「少女ジュリエット」という感じだった。それに比べると、ロメオのほうは少し立派過ぎたかも。全体としては、場面によってクラシック・バレエとモダン・バレエを上手く使いわけている感じで、いわば具象と抽象がまじりあい、刺激的だった。

でもやっぱり、オーケストラもしっかり鳴ってくれたほうが良いに決まっているわけで…。こうしてみると、バレエ団が優れているだけでなく、オーケストラの技術もしっかりしているマリインスキー劇場って、贅沢なところなのだなあと思えてくる。

2009年8月12日水曜日

マリインスキー劇場の「エフゲーニ・オネーギン」

ピョートル・チャイコフスキー 歌劇「エフゲーニ・オネーギン」

アレクセイ・マルコフほか、ミハイル・タタルニコフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団

8月10日 マリインスキー劇場 19:00~

せっかくロシアに来ているのだから、もうちょっとロシアのオペラも見ようと、その代表格である「エフゲーニ・オネーギン」を見にいく。ちょうど今シーズン最後の公演で、この後一月半ほど、マリインスキー劇場は夏休みである。

シーズンの最後だから特別いい演奏をするかというと、別にそういうわけでもなく、オーケストラに関しては、有名なワルツやポロネーズなどもう少しメリハリのある演奏ができたはず。歌手はものすごくいいというわけではないが、でも特に問題も感じなかった(こういうのって、感想が書けない)。やっぱり歌に関しては、ネイティヴが有利かも。

インパクトがあったのは、第3幕の頭、有名なポロネーズによる舞踏会の場面。男女の黒と白の衣装の対比が実に鮮やかで、幕が開いた瞬間に客席から拍手が沸きおこったほど。こちらに来てから結構オペラの舞台を見たけど、視覚的なインパクトはこれが一番。演奏はまあまあでも、目で見て楽しめるのがオペラのいいところ。

それ以上にインパクトがあったのが、客席の反応。夏休みなので外国人客が多めとはいえ、もちろん大半はロシア人。とにかく拍手が熱狂的。終演後の拍手なんて、先月のスペイン国立バレエ団にも勝るとも劣らないほど。え、今日の演奏ってそんなに良かったっけ!?ロシア人って「オネーギン」が好きなのだろうなあ、きっと。そう思わざるを得ないほどの「愛」のこもった熱い拍手だった。こういう反応が楽しめるのは、「お国もの」ならでは。

2009年8月7日金曜日

マリインスキー劇場の「イェヌーファ」

レオシュ・ヤナーチェク 歌劇「イェヌーファ」

ラリーサ・ゴゴレフスカヤ、イリーナ・マタエヴァ、アレクサンダー・ティムチェンコほか

ガブリエル・ゲイネ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団

8月6日 マリインスキー劇場 19:00~

「白夜のスター」音楽祭が終わったのに、なんで8月10日までマリインスキー劇場を稼働させるかというと、8月は外からやってくる観光客が多いので、その人たち向けという側面があるのだと思う。実際、この時期の演目は「蝶々夫人」「ジゼル」「バフチサライの泉」など、一般受けしそうなものが多いが、その中で浮いているのがヤナーチェクの「イェヌーファ」。一番高い席でも600ルーブルという安さなのに、足を運んでみると結構空席が目立つ。やっぱりヤナーチェクって、マニアにはともかく、一般の人たちにはまだまだ受けいれられていないのかなあ。日本では最近、村上春樹が最新作『1Q84』(未読)で言及してくれたおかげで、ちょっとだけ有名になったのかもしれないけど。あるいは、「日本ヤナーチェク友の会」なんてものがあるぐらいだから、日本ではまだポピュラーなほうなのかもしれないと思ったりもする。

私にとってヤナーチェクは「大好き」というわけではないが、なんか気になる作曲家である。突っかかるような独特のリズムに、全面的に共感できるわけではないけれども、いつも最後は曲の持つエネルギーというか情念に押しながされる。少なくとも、ヴェルディやプッチーニよりはずっと共感しやすい。「イェヌーファ」を生で聞くのは初めてだが、改めてそのことを確認した。要するにこういう音楽が好きなのだなと。オペラといっても、イタリア・オペラのように名歌手がその美声を披露するものとは全く違う。(いい意味で)洗練されていない、土臭さがある。

歌手たちのチェコ語の発音がどの程度正確だったかは、もちろん分からない。ところどころ苦労しているようだったが、同じスラブ語系のせいか、全体としてはそんなに問題を感じなかった。そして最近お疲れ気味の演奏が多かったオーケストラが、意外と生気みなぎる演奏を披露してくれていて良かった。指揮者の手柄?他のヤナーチェクのオペラも見てみたい。残念ながら、そう簡単には巡りあえないだろうけど。

2009年8月6日木曜日

バフチサライの泉

ボリス・アサフィエフ 「バフチサライの泉」

スヴェトラーナ・フィリッポヴィチ指揮 マリインスキー劇場管弦楽団

8月5日 マリインスキー劇場 19:00~

スペインのバレエに触発されて、ロシアのバレエも見てみることにする。8月ということもあってか、先月よりも外国人が多いような気が。日本人と思しき人たちもチラホラ。バレエなので、本当はダンサーの名前を大きく載せるべきだが、基本的にバレエのことは分かっていないので省略。

「バフチサライの泉」のあらすじはこちら。もう「オリエンタリズム」の教科書みたいな世界だが、あまりにも典型的すぎて、それはそれとして楽しみましょうという気になる。タタール人の踊りもすべてクラシック・バレエの枠の中に入れられ、「ああバレエだ」というさまざまな見どころが用意されて、「安心して」見ていられる。

もちろん、踊り手のテクニックは抜群(だと思う)。

個人的に興味深いのは、1934年にソ連でこんな古典的なバレエが作られていること。幕が上がるとすぐに、物語の中心となるマリアが、バレエ特有の白い衣装を着て出てくる。バレエ・リュスを経てもまだ、こんな世界が残っていたのだ。でもプロコフィエフのソ連復帰後のバレエ(「シンデレラ」とか)も、似たようなものだっけ?ただ音楽のほうも、チャイコフスキーに毛が生えた程度の実に聞きやすい音楽。しかも作曲者のアサフィエフという人は、当時のソ連の音楽界に強い影響力を持っていた人なのだ。記憶違いかもしれないが、確か「シンフォニズム」とかいう概念を提唱して社会主義リアリズムの理論化に貢献したのではなかったっけ?1934年と言えば、ショスタコーヴィチの問題作、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が初演された年でもある。そう考えると、当時のソ連の音楽状況の混沌ぶりが見えてくるようだ。

指揮はこの世界には珍しい女性指揮者。しかもかなり激しい身振りの指揮ぶりで、見ている分には面白かったが、ちょっと空回り気味だったかも。

2009年7月19日日曜日

スペイン国立バレエ団in マリインスキー劇場

DUALIA(二面性) LA LEYENDA(伝説)

スペイン国立バレエ団

7月18日 マリインスキー劇場 20:00~

実は今回こちらに来てから、初めてのバレエ観賞。それもよりによって、ロシアのバレエではなくスペインのバレエ。バレエに行かなかった主たる理由は2つあって、第一に、大阪に住んでいたころバレエを何度か見にいったことがあるけど、どれもピンとこなかったということがある。それもモーリス・ベジャールが振りつけた「春の祭典」や「ボレロ」、ローラン・プティが振りつけた「デューク・エリントン・バレエ」といった、世界的に見てもかなり評価の高いと思われるバレエだっただけに、自分には(とくに現代系の)バレエは縁がないのかと思ってしまった。第二に、バレエのチケットの値段は概して高い。バレエは「見る」ものである以上、できるだけ見やすい席に座りたいけれど、末席でも普通に1000ルーブルぐらいしたりする。もちろん日本での公演に比べれば圧倒的に安いけれど、他にも行きたい公演がたくさんあるのに、無理に行く必要もなかろうというわけで、結局行かずじまい。しかしスペイン国立バレエ団はペテルブルグにそう来ないだろうし、チケットも比較的安かったので(800ルーブルのチケットを購入)行くことにした。土曜日というのも好都合。

演目は2つ。DUALIA(ロシア語訳から重訳すると"二面性"となるけど、あっているのか?)とLA LEYENDA("伝説"。日本公演でも披露されているらしい)。いや~もう理屈抜きで楽しかった。ダンサーのカッコイイこと、カッコイイこと。前半のDUALIA。一挙手一投足が絵になるのはもちろんのこと、一糸乱れぬタップ、踊りながら鳴らすカスタネットに感激(踊りながら、あんなに綺麗にカスタネットをそろえられるものなのか?最初録音を流しているのかと思った)。まさしくダンサーの全身が音楽と化していた。後半のLA LEYENDAでは、中心となるダンサー、クリスティーナ・ゴメスとエレーナ・アルガドの2人が特に見事。初めてフラメンコを生で見たけど、すっかり目が釘付け。暗闇の中、スポットライトを浴びて黒ずくめの衣装で踊る彼女らの光景は、一生忘れられないと思う。何度かギタリストやシンガーなどが舞台に出てきて、ダンサーの後ろで生演奏を披露してくれたが、これがまたとても上手かった。

もちろん、終演後は拍手喝さい。いや、もうLA LEYENDAでは1つの踊りが終わるごとに盛大な拍手が沸き起こっていた。来年も来ないかなあと思う。今度来てくれたら、もっと高い席を買います。しかしペテルブルグに来てから最も感激した公演が、ティーレマン指揮のミュンヘン・フィルとスペイン国立バレエ団というのは???

2009年7月12日日曜日

P.ヤルヴィとマリインスキー劇場管のベートーヴェン

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第4番変ロ長調

同上 交響曲第7番イ長調 (以上7月9日)

同上 「献堂式」序曲

同上 交響曲第8番へ長調

同上 交響曲第2番ニ長調 (以上7月10日)

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 マリインスキー劇場管弦楽団

7月9日&10日 マリインスキー劇場コンサートホール 19:00~

ここ数年、ゲルギエフに迫る勢いで八面六臂の活躍を続けているパーヴォ・ヤルヴィが登場。しかもマリインスキー劇場のオケを振ってベートーヴェンとはどんなことになるのかと思って、聞きに行った。実はこの演奏会、ゲルギエフやノセダ、ソフィエフなどの指揮者が交代でベートーヴェンの交響曲と協奏曲を振るシリーズの、最終回である。残念ながら、他の演奏会は聞きに行けなかった。

まず舞台を見て驚いたのは、弦の数が多いこと。数えてみると、ファースト・ヴァイオリンから順にプルトの数が7-6-5-4-3となっている。ヤルヴィのことだから、もっと小編成で臨むと思っていたが、意外と一般的な編成である。

初日と2日では、2日目のほうが良かったように思う。1日目は、アンサンブルがところどころ乱れ、ヤルヴィの意思が今一つオーケストラに浸透していない感じで、「このオーケストラ、働きすぎで疲れているんじゃないか」と思ってしまった。管楽器のソロも、もっと上手いはずだったと思う。弦のプルトが多い割に、響が鈍重にならないのはさすがだが、見方を変えると元気がないとも言える。それでも、それぞれの交響曲の終楽章など、ヤルヴィの快速テンポに頑張って食らいついていたが。一方2日目は、「献堂式」の冒頭の音からして気合が入っているのがうかがえ、「今日は期待できるかも」と思っていたら、実際元気のいい演奏で楽しめた。初日よりも、指揮者の意図をオーケストラが良く咀嚼していたという感じである。どこかで吹っ切れたのだろうか?

パートごとに見ると、セカンド・ヴァイオリンやヴィオラなどの中声部がもう少し頑張ってくれたもっと面白かったのに、と感じた。チェロは両日とも健闘していたように思う。ヤルヴィの意図がより徹底しているのはカンマー・フィルとの演奏だろうが、たまにはこんな「他流試合」を聞いてみるのも、いろんな駆引きの跡が窺えて面白い。

2009年7月8日水曜日

ゲルギエフの「リング」

リヒャルト・ワーグナー 楽劇「ニーベルングの指環」

ワレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー劇場管弦楽団ほか

序夜「ラインの黄金」 7月4日 20:00~

第一夜「ワルキューレ」 7月5日 15:00~

第二夜「ジークフリート」 7月6日 18:00~

第三夜「神々の黄昏」 7月7日 18:00~

いずれもマリインスキー劇場

今年の白夜のスター音楽祭で一番楽しみにしていた公演である。「リング」全曲の生の舞台などそう簡単に接することなどできないし、しかも指揮はゲルギエフ。一生忘れられない思い出になるのではないかと思って、楽しみにしていた。しかし結果は…。

期待が大きかった分、失望も大きかったと言うべきだろうか。正直、ペテルブルグに来てから、最も疲労感あるいは徒労感を覚えた公演だった。3日目と4日目に至っては、これ以上聞いても無駄だと思って、第一幕が終わった時点で帰ってしまった。途中で帰るなど、クラシックのコンサートに通うようになってから初めてである。

まず歌手については、声量や声質の点でいろいろと物足りなさが残った。そりゃあ、マリインスキーの歌手たちにホッター、ニルソン、ヴィントガッセン等々の往年の名歌手と同じレベルを求めるのは、無体なのであるが…。歌手に限らないことだろうが、現代の演奏家は現役の他の演奏家のみならず、過去の名録音とも勝負しなければならないから、大変である。ゲルギエフとしては、歌手たちを鍛えるために、無理を承知であえて難役に挑戦させているという側面もあるのだろう(そう思いたい)。もちろん出演者の中には健闘している歌手もいて、特に「ワルキューレ」でブリュンヒルデを歌っていたオリガ・サヴォヴァは比較的よく通る声で、表現力もあり、印象に残った。

むしろ問題は、オーケストラのほうかもしれない。もちろんちゃんと弾けているのだが、ワーグナーの音楽に陶酔させてくれない。日本で年末に放送されるバイロイト音楽祭の放送を聞くと、演奏に多少の不出来があっても胸が高鳴るのだが、その胸の高鳴りがまるで来ない。なんだか単調なのである。こうなるとワーグナーの音楽は、ただ単に冗長なものでしかなくなる。もともとマリインスキー劇場の椅子はあまり座り心地が良くないだけに、なおさらだ。こう言っては悪いが、ワーグナーの音楽を嫌う人たちの気持ちがちょっと分かったような気がする。

演出については、特に言うことなし。

家に帰ってから、ショルティの録音で「神々の黄昏」のラストの部分を聞いてみた。「ブリュンヒルデの自己犠牲」と言われる部分である。ああ、この興奮を生で味わいたかったのに…。いろんな意味で落胆した。ただ幕が終わるごとに、ブラボーが飛んでいたことは記しておこう。結局、蓼食う虫も好き好きということか。

2009年7月3日金曜日

マイスキーのロシア・ロマンス

グリンカ、キュイ、グラズノフ、ルービンシュタイン(アントン)、チャイコフスキー、ラフマニノフの歌曲の編曲

ミーシャ・マイスキー(チェロ)、リリー・マイスキー(ピアノ)

7月2日 フィルハーモニー小ホール 19:00~

6月30日のコンサートを聞いて、これなら7月2日のコンサートはかなりいいのではないかと思い、翌日あわててチケットを購入。もはや一番高い700ルーブルの席が2つしか残っていなかったが、日本で買うことを考えればまだ安い。しかし、ロシア歌曲の編曲集なんてプログラム、日本で組めるだろうか。伴奏者は実の娘。顔の輪郭は父親そっくりである。あと目の感じが、似ているかも。

前半は、ラフマニノフ以外の歌曲を並べ、後半はラフマニノフを集中的に取り上げていた。何曲かアタッカで演奏していくが、違和感はない。改めて思ったのは、マイスキーの持つピアニッシモの魅力。高音のフォルテはややきつい音になるが(会場の響き方も関係しているのかも)、ピアニッシモはだれにも負けない。ヴィブラートのかけ方も絶妙。取り上げた曲の中で、知っているのはラフマニノフのヴォカリーズぐらいだったが、これがとても美しかった。特に繰り返しの際、2回目で大きく音量を落とすのだが、そこでマイスキーの本領が発揮。背筋がゾクッとするような音を出していた。ただ私は、しばしばマイスキーのチェロについて語られる際に使われる「魂」だとか「真実」だとかいう高尚なものよりは、もっと艶やかなものを感じた。別に悪い意味ではない。終演後、ヴォカリーズの楽譜を持って楽屋に押しかけ、サインを頼んだのだが、「ヴォカリーズ」と感慨深そうに呟いてサインをしてくれたことも忘れがたい。

娘は伴奏者としての役割をきちんと果たしていたのだが、ラフマニノフなど、もう少しピアノからの働き掛けも欲しいと思った。偉大な父を前に、それは難しいかもしれないけれど。

2009年7月1日水曜日

ミーシャ・マイスキーとニコライ・アレクセーエフ

マックス・ブルッフ 「コル・ニドライ」

エルネスト・ブロッホ ヘブライ狂詩曲「シェロモ」

ピョートル・チャイコフスキー 交響曲第4番へ短調

ミーシャ・マイスキー(チェロ)ニコライ・アレクセーエフ指揮 サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団

6月30日 フィルハーモニー大ホール 19:00~

今度はマイスキーを初体験。そのマイスキーが出てくる前半は、「ユダヤ」を意識したと思われるちょっと濃い目のプログラム。そして演奏自体も濃いなあ。いや、「濃い」というのは不正確かもしれない。彼のチェロの音はむしろ「弱い」と言っていいぐらいなのだが、でも音色に独特の美しさがある。レースのような透明感、とでも言えばいいのだろうか。それとも、羽毛のような柔らかさと言ったほうがいいかも。したがって「シェロモ」などはいささか物足りなかったが(というのも、私はシュタルケルの剛毅な演奏でこの曲を覚えているので)、アンコールの小品はとても良かった(残念ながら曲目は不明)。この人、協奏曲よりも室内楽向きではないか。それもソナタより、アンコール・ピースのような小品向き。アンコールの2曲目として、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番のプレリュードを演奏していたが、テンポが揺れまくる演奏だった。正直、あまり好みのタイプのバッハではないのだが、独自のものを持っていることは確かだ。

後半は、常任指揮者のアレクセーエフによるチャイコフスキーの交響曲第4番。それほど期待していたわけではないのだが、こういう演奏が実は結構楽しめたりする。聞きながら、ムラヴィンスキーの有名な録音が頭をよぎらなかったと言えばウソになるが、でも十分楽しめた。なんだかラフマニノフの時と矛盾する感想だが。たぶんウィーン・フィルのウィンナ・ワルツみたいなもので、このオケのチャイコフスキーというのは、否が応でも一定水準に達してしまうのかもしれない。いや、テミルカーノフの時の5番より良かったかも。テミルカーノフとは対照的に、それほどテンポは揺らさないストレートな演奏。ムラヴィンスキーの鋭さはなくても、響は十分充実していた。

2009年6月30日火曜日

クン・ウー・パイクのラフマニノフ

セルゲイ・ラフマニノフ ピアノ協奏曲第1番~第4番+パガニーニの主題による狂詩曲

クン・ウー・パイク(ピアノ) アレクサンドル・ドミトリエフ指揮 サンクト・ペテルブルグ交響楽団

6月28日、29日 フィルハーモニー大ホール 19:00~

ラフマニノフのピアノ協奏曲全曲とパガニーニ・ラプソディーを2日間で全部弾ききるという、なんとも挑戦的なプログラム。このプログラムに挑戦できるピアニストは、今世界に何人いるだろうか。しかも挑戦するだけでなくて、最後まで綻びを見せなかった。

パイクはとてもきれいな音を出す。ピアノのことをあれこれ論じる能力はないけれど、ラフマニノフのびっしり書きこまれた音符が一音一音明確に、それでいてとても柔らかい音で、聞こえてきた。これが最後(難曲中の難曲、3番!)まで維持されていたのだ。5曲とも見事だったが、どれが一番良かったかと問われれば、「パガニーニ」だろうか。曲のロマンチックな部分とモダンな部分の両方が、上手く表現されていた。

問題はオーケストラ。このオーケストラ、個人技はともかく、アンサンブルの精度がイマイチ。リハーサルの時間が足りなかったのだろうかと思わせるほど、ピアノとの絡みが上手くいかない。先日、宮城敬雄の指揮で崩壊しかけたのも、あながち指揮のせいばかりでもなさそうだ。しかも洗練された音色を出すパイクに対し、このオーケストラは良くも悪しくも古いロシア的な音色を出す(特に金管)。その点でも、齟齬を感じた。

もし伴奏がアシュケナージ指揮のサンクト・ペテルブルグ・フィルだったら、さぞかし心に残る名演になっただろうと、勝手な想像をしてしまった。

2009年6月28日日曜日

タタルニコフの「3つのオレンジへの恋」

セルゲイ・プロコフィエフ 歌劇「3つのオレンジへの恋」

ミハイル・タタルニコフ指揮 マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団ほか

6月27日 マリインスキー劇場 19:00~

プロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」と言えば、もっぱら行進曲のみが知られている。2分にも満たない中にプロコフィエフのエッセンスが凝縮されているので、よく知られている(編曲も多い)のは尤もなのだが、今回全曲演奏に接して、行進曲ばかりが有名なのは惜しいと思った。全編、実にユーモアあふれる楽しい音楽なのだ。あらすじについては、こちらを参照。バレエにしてもよさそうなストーリーである。

演出も巧みだった。舞台上は意外と簡素で、むしろ客席から指揮者が登場したり、客席に散らばった合唱団が歌いだしたりと、空間をうまく使った生の舞台ならではの楽しみがあった。どうやら、日本公演でも同じような演出だったらしい。子どもに見せても喜びそうだ。

指揮はゲルギエフではなく、マリインスキーの若手、セルゲイ・タタルニコフ。だが「これがゲルギエフだったら」などという思いは、まったく抱かせなかった。プロフィールを見てみると、この人、もともと1999年からマリインスキーのファースト・ヴァイオリン奏者だったのだが、同時に指揮の勉強も続け、2006年にはマリインスキー劇場で指揮者デビューを果たしたらしい。だから指揮者としてはまだまだ駆け出しである。しかし、決して単純ではないと思われるプロコフィエフのオーケストレーションの面白さを十分オーケストラから引き出していて、行進曲など実にカッコ良かった。カーテンコールでも、この人が一番大きな拍手を受けていた。今後の活躍が楽しみである。日本のどっかのオケにも来てほしい。

2009年6月26日金曜日

アシュケナージの「英雄の生涯」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲ニ長調

リヒャルト・シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」

ウラディーミル・アシュケナージ指揮 サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団、セルゲイ・ドガジン(ヴァイオリン)

6月25日 フィルハーモニー大ホール 19:00~

アシュケナージの演奏を生で聞くのは初めてだが、CDは何枚か持っているし、N響時代は何回もラジオで耳にした。正直、デュトワのころのほうが全体的には好きだったが、それでもときどきショスタコーヴィチなどで熱演を聞かせてくれたので、なんだか中途半端な形でN響をやめたのは残念だった。アシュケナージの言い分を信じると、N響の事務局の対応は、最後はずいぶんと失礼なものだったらしいが。

それはともかく、今回の演奏会、アシュケナージの好きそうなドイツプログラム。まずベートーヴェンの協奏曲だが、若手ヴァイオリニストのドガジンが上手い。挑みかかるような膝を曲げた姿勢で演奏するが、出てくる音自体はむしろ繊細で美しい。ただ第一楽章など、もう少し盛りあげる工夫があっても良かったかもしれない。ドガジンのように「美しさ」を追求するアプローチだと、第一楽章が長大なアダージョのように響き、第二楽章との区別がもう一つつきにくかったように思う。

アンコールでは、聞いたことのない超絶技巧の独奏曲を披露していた。この人、技術的には十分。

後半の「英雄の生涯」で、この街に来て初めて"レニングラード・フィル"の音を生で聞くことができたという気がした。冒頭の低弦からして、ズシリと来て、嬉しくなった。「英雄の敵」の木管のアンサンブル、ほとんど協奏曲状態の「英雄の伴侶」のヴァイオリン・ソロも見事。気のせいかもしれないが、「戦場」で、ファンファーレや小太鼓が"ショスタコーヴィチ"になってしまうのはご愛敬。 "レニングラード・フィル"時代と比べて、イマイチ評価の上がらない"ペテルブルグ・フィル"だが、まだまだ侮れない底力を秘めていることを実証。このことが嬉しい。

しかし"ペテルブルグ・フィル"からこれだけの能力を引きだしたアシュケナージの才能こそ、侮れないというべきかもしれない。ちょっと見なおした。これからも来てほしい。

2009年6月21日日曜日

宮城敬雄のチャイコフスキー

ピョートル・チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲ニ長調

同上 交響曲第6番ロ短調「悲愴」

同上 組曲「くるみ割り人形」より「花のワルツ」(アンコール)

宮城敬雄指揮 サンクト・ペテルブルグ交響楽団、マリーナ・ヤコヴレヴァ(ヴァイオリン)

6月20日 フィルハーモニー大ホール 19:00~

最初、プログラムを見たときは「ユキ・ミヤギ」と書いてあり、「はて、そんな女性指揮者いたかな?」と思ってしまったが、宮城敬雄(ユキオ)氏のことだった。会社社長という立場から、50歳を過ぎて夢を実現させたということで有名な宮城氏。演奏を聞くのはこれが初めて。オーケストラは「もうひとつの」サンクト・ペテルブルグ交響楽団(ムラヴィンスキーやテミルカーノフで有名なほうは、「サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団」と訳すらしい。こちらに来て初めて知った)で、オール・チャイコフスキー・プロ。どんな演奏を聞かせてくれるのだろうかと思ったが、一言で言うと非常に「まじめな演奏」。

最初はヴァイオリン協奏曲。ソリストの要求か指揮者の要求か分からないが、序奏部からしてゆっくり。オーケストラもソリストも、一音一音を丁寧に鳴らそうとする。それはいいのだが、ソリストの音程の不安定さがいささか目立ってしまう。こういうのを聞くと、2週間前に聞いた諏訪内晶子は上手かったなと思ってしまう。ただ時々、歌い方がつぼにはまる時があり、カデンツァなどは面白かった。音程も、曲が進むにつれて安定してきたように思う。

次の「悲愴」も、一音一音を生真面目なほど丁寧に鳴らしていこうとする姿勢は変わらない。チャイコフスキーを弾きなれているであろうロシアのオケから、こうした姿勢を引きだすのは案外難しいのではないか。素人くさい朴訥さはあるが、それがまた魅力でもある。指揮者がどうしたいのか、はっきりと伝わってくる。これはこれでいいのではないか…、などと考えていたら、第一楽章の中間部で金管が思いっきり他とずれて、崩壊寸前!なんとか立てなおしたものの、肝を冷やした。その後も同じ感じで演奏が進むが、第3楽章の最後が決まらず、崩壊気味。でもその直後に拍手が…。

全体の終了後も拍手喝さいで、ご丁寧にもアンコールで「花のワルツ」を演奏。こちらは気楽な感じ。「悲愴」の前からハープが用意されていたので、最初から演奏するつもりだったのだろう。

宮城氏の指揮は打点を明確に出すもので、素人の目には分かりやすい指揮に見える。一方、今月聞いてきたゲルギエフ、テミルカーノフ、ティーレマンの指揮は、必ずしもそうではない。特にティーレマンは、斜め上からその指揮姿を眺めていたが、よくあれでアンサンブルが揃うなあと思う指揮ぶりだった。もちろん、時々少し乱れるのだが、今回のように致命的になる可能性は感じられない。ブルックナーの交響曲第8番、第3楽章の頂点でシンバルが鳴るが、私がシンバル奏者でティーレマンの指揮だったら、絶対に叩きそこなうと思った。実際にはもちろん見事なシンバルが鳴ったのだが、オーケストラのアンサンブルの妙を感じた。

それ以外にも、フルトヴェングラー、カラヤン、朝比奈隆等々、有名な指揮者の「分かりにくい」例はキリがない。「良い指揮」とは一体何なのか?指揮者の役割やアンサンブルの作り方、名演の条件について、いろいろ考えさせられた演奏会だった。

2009年6月20日土曜日

ゲルギエフの「青ひげ」

アントン・ドヴォルザーク チェロ協奏曲ロ短調

ペトリス・ヴァスクス 「チェロのための本」~第2楽章Dolcissimo(アンコール)

ベラ・バルトーク 歌劇「青ひげ公の城」(演奏会形式)

ワレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー劇場管弦楽団

ダヴィド・ゲリンガス(チェロ)、エレーナ・ツィトコーワ(メゾ・ソプラノ)、Gabor Bretz(バス)

6月19日 マリインスキー劇場コンサートホール 19:00~

5月末にチケットを買った段階では、「青ひげ公の城」しか告知していなかった。ところがいつの間にか、ゲリンガスを迎えたドヴォルザークが追加。おかげで、すごく得した気分。

一番前で聞いていたせいもあるのだろうが、ドヴォルザークのチェロ協奏曲では、ソリストの演奏にぐんぐん引き込まれた。力強い音で、曲を引っ張っていく。最近満足できる協奏曲の生演奏に出会えなかったので、これは嬉しかった。またアンコールのヴァスクスが素晴らしかった。水を打ったような静けさの中、ゲリンガスの「歌」(この曲はチェリストが文字通り「歌う」)が響いた。録音もしているぐらいだからきっと得意の演目なのだろうが、まさしく奏者と曲、そしてホールが一体化していた。その間、誰かの携帯が鳴らなくて良かった!

一方、ゲルギエフの特長が発揮されていたのは、後半のバルトークだったと思う。とても洗練されたバルトーク。ソ連時代のロシアのオケからは考えられないような響き。もちろん、要所ではドラマチックに盛りあがる。他のバルトークの作品、特に「中国の不思議な役人」あたりもゲルギエフの指揮で聞いてみたいと思わせた。ハンガリー語はさっぱり分からないが、2人の歌手も好演。演奏会形式だったが、ツィトコーワは髪をかきむしる演技を見せていた。ゲルギエフがロンドン交響楽団を振ったCDがもうすぐ出るけど、CDではどんな演奏を聞かせてくれるのだろうか。

ゲルギエフの「エレクトラ」

リヒャルト・シュトラウス 歌劇「エレクトラ」

ワレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団ほか

6月16日 マリインスキー劇場 19:00~

これは本当に聞くのが初めての曲。インターネットであらすじだけ確認し、臨んだ。その点では「アレコ」や「イオランタ」と同じなのだが、こちらのほうがはるかに前衛的。チャイコフスキーのように、即座に耳になじむような分かりやすい旋律はない。もちろん、全編に満ちている不協和音がこの曲の魅力でもあるのだが、いきなり生で聞いてしまうと、さすがにつかみどころが分かりづらい。

しかも今回の公演では、巨大なオーケストラに圧倒されて歌手たちの声が聞きとりづらかった。最初の侍女たちの会話からして、そう。なにしろ、オーケストラピットにオーケストラが入りきらず、打楽器は両脇のボックス席に配置されていたぐらいだから。ティンパニの叩きっぷりは気持ちよかったが、普通に考えれば、歌手の声をかき消してしまうだろう。生の「エレクトラ」とはこんなものなのか、それとも歌手たちの声量不足なのか、もう少し経験を積んでみないと(と言っても、「エレクトラ」を聞く機会などそう多くはないだろうが)分からない。こういうバランスの問題は、CDだと誤魔化せてしまうし。

2009年6月14日日曜日

ゲルギエフの「パルジファル」

リヒャルト・ワーグナー 舞台神聖祝祭劇「パルジファル」(演奏会形式)

ワレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団 ヴィオレッタ・ウルマーナ、ルネ・パーペほか

6月12日 マリインスキー劇場コンサートホール 18:00~

会場に入ると、舞台上に何本ものマイク。明らかに録音用。CDにするのだろうか。

まさかよりによって、初のワーグナー全曲生体験が、「パルジファル」になるとは思わなかった。ワーグナーのオペラの中(もちろん、「さまよえるオランダ人」以降)で最もとっつきにくかったのだから。最近になって、第一幕や第三幕の後半の合唱など、聞きどころを覚えたが、「渋い作品」という印象は変わらない。ましてや演奏会形式など耐えられるだろうかと思いつつ、そう頻繁に聞けるとも思えないので、聞きに行った(そういう動機で、気楽にコンサートに行けるのがペテルブルグのいいところ)。というわけで、演奏の善し悪しが判断できるほど曲のことを知らないのだが、以下、簡単な感想。

前奏曲が始まって、「ああ、今日は帰るのが遅くなるぞ(笑)」と思った。案の定、コンサートが終わったのは午前0時近く。いつものことながら、実際の演奏が始まるのは予定時刻より20分近く遅れたし、休息時間も長かったが、それでも演奏に4時間半ほどかけたことになる。以前徐京埴の『ディアスポラ紀行』(岩波新書)を読んだとき、ワーグナーに魅せられつつも、ナチスの影がぬぐいきれないことからくる葛藤を告白していて、興味深く読んだ。その中で著者が、「パルジファル」のライヴ(指揮はサイモン・ラトル)を聞く場面がある。確か「おそらく曲がもたらす疲労感も計算に入れて、聴衆を陶酔させている」と分析されていたと思うのだが、実際に「パルジファル」を聞きながら、その記述を思いだした。ただこれが演奏会形式でなければ、もっと陶酔感は高まったかもしれない。また第一幕と第三幕に出てくる鐘が、シンセサイザーで代用されていて(意外とゲルギエフはこういう点、こだわらない)、この点は正直いささか興醒めだった(CDにする際は、どうするのだろう)。

3週間後には、「指環」全曲が待っている。「パルジファル」を聞いて「指環」を聞いて、私もワーグナー教の信者になるのだろうか。続きは「指環」の後で。

2009年6月8日月曜日

ゲルギエフによるロシアオペラ二本立て―「アレコ」と「イオランタ」

セルゲイ・ラフマニノフ 歌劇「アレコ」

ピョートル・チャイコフスキー 歌劇「イオランタ」

ワレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団

6月7日 マリインスキー劇場 19:00~

どちらも初めて聞くロシアのオペラ2本。そもそもこの二作品、(たぶん世界的に見ても)めったに上演されない。というのも、両方ともオペラとして短すぎるからだ。「アレコ」のほうは1時間、「イオランタ」のほうは1時間40分である。ただプログラムによると、この二作品を同時に取り上げたのには単に短いということ以上に、対照的な女性像を浮かび上がらせる狙いもあったらしい。

「アレコ」のあらすじは、ロマの集団で暮らすアレコという男性(彼自身はロマではない)が、前から付き合っていたロマの恋人ゼムフィーラに捨てられ、怒ってゼムフィーラとその恋人を殺してしまうというもの。いわば、「カルメン」の後半だけを取り上げたような感じ。ただしこちらのほうは、「カルメン」と違って、最後はロマたちにも捨てられる男の孤独が浮かび上がるようになっている。モスクワ音楽院の卒業作品で、なんと19歳だか20歳のときに書いたらしい。音楽は、見せ場となるアリアもちゃんと用意されているものの、後年のラフマニノフ特有の、ねっとりした濃厚なロマンティシズムはまだそれほど顔を見せていない。むしろ中間部の踊りの音楽など、グリーグの「ペール・ギュント」のように響く。ゲルギエフの指揮ですら、そうなのだ。

逆に「イオランタ」は、盲目の王女様が愛に目覚めて目が見えるようになるという話であり、「くるみ割り人形」と同時上演されることを想定して書かれたというだけあって、チャイコフスキー節満載、聴きどころのアリアも多い。序奏ではまず管楽合奏、そのあとは弦楽とハープのみのアンサンブルに移り、そこから徐々に楽器が増えていくなど、オーケストレーションも冴えている。以前ゲルギエフが振った「イオランタ」のCDが出た時、『レコード芸術』で「この素晴らしい作品が演奏されないのは、中途半端な演奏時間のためだとしか考えられない」という評が載っていたのを、今でも覚えているが(10年以上も前のことだ)、確かにそのような評価も納得である。いつか、「くるみ割り人形」と一緒に見てみたい。演奏時間だけで3時間ぐらいかかるけど、ワーグナーに比べれば大したことではない。きっとその間、チャイコフスキーのメルヘンの世界に遊べるはずだ。

「イオランタ」に比べると、さすがに「アレコ」は分が悪いが、事実上の処女作と円熟期の作品なのだから、しょうがない。むしろラフマニノフが、その後ちゃんと自分の個性を確立していったことを、評価するべきだろう。

2009年6月6日土曜日

諏訪内晶子とテミルカーノフのブラームス

ヨハネス・ブラームス ヴァイオリン協奏曲ニ長調

ピョートル・チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調

諏訪内晶子(ヴァイオリン)ユーリ・テミルカーノフ指揮 サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団

6月4日 フィルハーモニー大ホール 19:00~

フィルハーモニーの大ホールはいつになく超満員。テレビカメラに加え、いくつもマイクが立っていた。ひょっとしたらCD録音でもするのだろうか。諏訪内晶子が出るせいか、日本人と思しき人たちもちらほら。

一曲目は、ブラームスのコンチェルト。席は後ろのほうだったが、諏訪内のヴァイオリンはよく聞こえた。まさかマイクで拾って、スピーカーで流していたわけでは…。協奏曲で、オーケストラに埋もれずあれだけソリストの音が聞こえるのは、珍しいと思う。とてもストレートな音で、第1楽章のカデンツァなど見事だった。ただこの組み合わせだと、どうしても要求が高くなる。先日聞いた、ティーレマンのブルックナーが凄かっただけになおさらだ。ああいう何か突き抜けたものがほしい。したがって、悪くはなかったけれど、さらに上があるのではと思ってしまった。

後半のチャイコフスキーもしかり。もはやこのコンビにとっては十八番。緩急の変化も自由自在。世界中で一番、チャイコフスキーの5番が上手いコンビかもしれない。ただ、曲が手の内に入りすぎているかもという贅沢な疑問もちょっと出てきた。

ロシア語の「魔笛」

W.A. モーツァルト 《魔笛》(ロシア語による上演)

トゥガン・ソヒエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団ほか

6月3日 マリインスキー劇場コンサートホール 19:00~

なかなか面白い演出だった。中でも特徴的だったのは、台詞の部分で打楽器による伴奏を付けたことである。それも銅鑼などの「東洋的」な響きのする楽器を多く用い、モダンというか、ちょっと不思議な空間を作り出していたことである。服飾も、日本の様々なもの(学ラン、般若、鎧兜、傘)をヒントにしたようであり、獅子舞(こちらは中国風)を模したような動物も登場して、笑えた。ちなみにこの獅子舞、動きがかなり滑らかで、見事だった。ロシア人はどのようなつもりで見たのだろう。オリエンタリズムといえばオリエンタリズムだが、こんなことで目くじらを立てるのもバカバカしいと感じる。

歌手の中では、パパゲーノ役の歌手(エフゲーニ・ウラノフ)が光っていた。演技も達者で、声もよく通る。ユーモアたっぷりで、オペラ全体の雰囲気を牽引していた。

一方、期待していたソヒエフ指揮のオーケストラは、残念ながらヴァイオリンの音が荒れ気味。仕事のしすぎだろうか?そんなこともあって、もっぱら舞台上の芝居を楽しんだ。

2009年6月5日金曜日

ティーレマンとミュンヘン・フィルのブルックナー

アントン・ブルックナー 交響曲第8番ハ短調

クリスティアン・ティーレマン指揮、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

6月1日、マリインスキー劇場コンサートホール 20:00~

5年ほど前まで、ブルックナーは意味不明な作曲家だった。なんであんな冗長な曲に、みんな熱狂できるのか、よくわからなかった。しばしば比較されるマーラーのほうが、ずっと好きだったし、マーラーのほうに親近感を覚えるという状況は、今に至るまで変わっていない。

それでもブルックナーが聞けるようになったのは、ロリン・マゼール指揮ベルリン・フィルによる、ブルックナーの交響曲第8番のCDを聞いてからだ。宇野功芳の言う「身を浸す」という感覚が、ようやくわかった気がした(もっとも宇野功芳は、マゼールのブルックナーなど認めないだろうけど)。新しい言語を取得したような感覚だった。今回のコンサートは、ブルックナーを聞けるようになって初めて聞く、生のブルックナーだった。そしてティーレマンの指揮も、初めて目にした。嬉々としてブルックナーのコンサートに出かけるなど、数年前まで考えられなかったことだ。

結果は、凄かった、としか言いようがない。圧倒的なパワーを誇る金管とティンパニ、3楽章で見せた、熱いチェロ。でもうこうして並べていっても、何も表現できていないと思う。むしろ、ティーレマンの曖昧な振り方(たぶん意図的なのだろうが)のせいもあって、ところどころアンサンブルが乱れていた。録音で聴くと、そうしたミスのほうが目立ってしまうかもしれない。にもかかわらず、当日は押し寄せる音の洪水に、すっかり心が満たされてしまった。

でももしかしたら、一番忘れがたいのは、演奏終了直後かもしれないと思う。一瞬間があって拍手が始まったが、ティーレマンが固まったまま動かないので、すぐに静かになった。そしてそのまま会場全体が、静まり返ってしまった。10秒ほど経ってからだろうか、誰かが「ブラボー」と言って、それをきっかけにどっと拍手が起こったが、あの間の静粛は忘れがたい。ブルックナーの8番のラスト、轟音をとどろかせた後だけに(1時間半も演奏してきて…。一体ミュンヘン・フィルの人たちは、どれだけパワーがあるのだろう)、あの沈黙、余韻は本当に深いものがあった。あの沈黙のために、1時間半の演奏があったのかもしれないとさえ思う。

ミッコ・フランク指揮フィンランド国立歌劇場によるサッリネンのオペラ

アウリス・サッリネン オペラ「赤い線」

ミッコ・フランク指揮、フィンランド国立歌劇場管弦楽団&合唱団ほか

5月29日 マリインスキー劇場 19:00~

アウリス・サッリネンは、初めて聞く作曲家。いわゆる「現代音楽」は好きなほうだが、意外とフィンランドの作曲家は聞いていない。別に避けてきたわけでもないのだが。ちなみにミッコ・フランクを聞くのも初めて。聞いたことのない作品なので判断は難しいが、全体を問題なく統率していたと思う。

インターネットで大まかなあらすじだけ掴んで臨んだ。1907年、初の国会選挙が行われることが、背景としてある。しかし、物語全体は、結局宗教も社会主義も貧しい農民を救いはしないという、悲しい結末になっている。作曲されたのは1978年で、全体で2時間弱。
http://www.chesternovello.com/default.aspx?TabId=2432&State_3041=2&WorkId_3041=11573

音楽は、調性感のあるメロディーが主体で、ところどころ現代的なサウンドが挟み込まれる。そうした音楽を使って、貧しい人々の閉塞感を描き出している点で、ヤナーチェク(イエヌーファ)やブリテン(ピーター・グライムズ)に通じるものがあると思った。とくに印象的だったのは、第2幕で歌われる民謡調のアカペラ。ジーンときた。

といっても、何を歌っているのか漠然としかわからないというのは、やっぱり隔靴掻痒の感がある。歌唱はフィンランド語で、当日はロシア語の字幕が出ていたが、残念ながらロシア語の字幕を追えるほどの語学力はない。CDでもう一度聞きなおしてみたいが、以前出ていた唯一のCDは、すでに廃盤らしい。