2009年10月3日土曜日

音楽が生まれる「場」と「精神性」~岡田暁生の近著について

先日、日本からロシアにやってきた友人が気を効かせて(?)岡田暁生の近著『音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉』(中公新書、2009年)を持ってきて、そのまま置いていってくれた。最初に告白しておくと、私は岡田暁生の書くものに対して、どちらかというとネガティヴな反応を示すことが多い。同じ中公新書から出た『西洋音楽史』の描き方についても、事実上仏独伊に限定された描き方に(だから読みやすいのだろうが)疑問に思うところが多かった。でもせっかくもらったので、早速読んでみると、今回は賛同できる部分も結構あったのだが、それでも今まで通り違和感を覚えてしまう部分もあって、いささか複雑な気分である。バーンスタインの言葉を借りれば(DVD「答えのない質問」より)、「大変興味深いが、納得できない本」ということになるだろうか。

まず、どこに賛同できるかというと、特に最初のほう、音楽を聞いた感想を言葉にすることの難しさ、そのモヤモヤ感(こうやってブログを書いていると、いつも感じる)を上手く文章にしてくれていて、こういったところはさすがプロである。また、昨今の音楽産業における作為的な「感動」に対する批判(たとえば27ページ)も、もっと書いてくれと言いたくなるぐらいである。それに、現代の音楽がポピュラー音楽であれジャズであれ、19世紀に確立した「西洋音楽」の影響を大きく受けており、クラシック音楽を研究する社会的な意義が現代でもあるということも、ある程度、納得できる。

とまあ、1つ1つの文章の中には、納得できる部分が多くあるのだが、全体としてみると、読後には違和感が残った。それを乱暴に一言で言いきってしまえば「結局、あんたのクラシックの美学は宇野功芳と大差ないじゃん!」ということになる。こんな言い方をすると、宇野、岡田両氏から怒られそうだが(笑)。もう少し分かりやすくいいかえると、著者が一見、日本の教養主義的なクラシック音楽批評に対して距離を取っているように見えながら、実のところ著者のクラシック批評は、「保守本流」とでも言うべき、昔から日本で言われてきたクラシック音楽の美学と大して変わらないものになっているのではないか、という点に、私は疑問を感じたのである。

私が岡田暁生の音楽観に反発したのは、数年前に北海道新聞の夕刊に載ったエッセイを読んだときである。それは2度あったが、1度目は、もう現代の演奏家に昔のような感動を求めるのは無理だ、というものであり、2度目は日本人の演奏はテクニックは抜群かもしれないが、聞いていて面白くなく、技術的には劣る外国人の演奏のほうが面白い、というものだった。

昔の演奏のほうが感動できた、日本人は技術的には大分向上したかもしれないが…、という批評は、クラシック音楽の批評にある程度目を通してきた人ならば、1度や2度は、必ず目(耳)にしたことがあるはずである。岡田暁生のこの音楽観は、もちろん本書でも継承されていて、「上手い」日本人に対する批判(71ページや215ページ)、シュナーベル(122ページ)やフルトヴェングラー(148ページ~)に対する賛辞と、ブレンデルやポリーニに対する批判的言及(122ページ)などがその例である。

つまり、これまでの日本の音楽批評において「精神性」「深み」などの表現で語られてきた問題が、この本では「意味」「言葉」「場」などの表現に置きかえているだけであって(もちろん、この言い替え自体は重要だとは思うのだが)、著者の音楽観が、著者が距離を取ろうとしている既存の日本のクラシック批評と、それほど違いがあるとは思えないのである。たとえば、「精神性」「深み」という言葉を振りかざし、日本のクラシック・ファンに多大な影響を与えてきた音楽評論家と言えば、宇野功芳が代表格だが(ただし彼の場合、「切れば血の吹き出るような」に代表される肉感的な言葉も同時に多用し、それによって多くのファンを獲得した)、「技術偏重」のポリーニやブレンデルに対する批判、フルトヴェングラーに対する賛辞など、表現方法は違っても、最終的な演奏の良し悪しの判断に、大きな違いはない。あるいは、本書と中野雄『丸山真男 音楽の対話』(文春新書)を読み比べてみると面白いだろう。丸山真男は音楽評論家ではないが、日本の教養人とクラシック音楽の関係を考える上で、興味深い素材を提供してくれている。

著者は「西洋中心主義」やクラシック中心主義に対する批判をおそらく強く意識しており、そのせいか、本書の執筆時にずいぶんとモダン・ジャズを聞きこまれたようだが、私が思うに、著者の問題点は、他のジャンルを聞いているかどうかよりも、クラシック音楽の中で「中心と辺境」を明確に分ける、その観点ではないだろうか(この問題点は、『西洋音楽史』で如実に露呈している)。

そもそも、なぜ私が「昔の演奏家のほうが凄かった」式の批評が嫌いかというと、理由は単純で(いや、実際は私のこれまでの様々な経験の蓄積がかかわっているのだろうけど、今回は省略)、私は昔の巨匠の演奏、中でもその代表格、フルトヴェングラーの演奏に、まともに感動したことがないのである。これは趣味の問題と言ってしまえばそれまでだし、ひょっとしたら今後変わるかもしれないが、フルトヴェングラーの演奏を聞いて「立派だなあ」と思うことはあっても、共感することはない。そこで鳴っている音楽に、自分を一体化させることができないのである。しょせん、別世界で鳴っている音楽なのだ。クナッパーツブッシュも同じである。昔はトスカニーニの演奏もそれほど好きではなかったが、最近、XRCDのような非常にいいリマスタリングを聞いてから、印象がだいぶ良くなった。

さて、本書を読みながら、1つの素朴な疑問を感じた。それは、著者がカラヤンをどのように思っているかという問題である。戦後、クラシック音楽のあり方を変えたのがカラヤンであることは、これまでたびたび指摘されてきたことであり、クラシック音楽の「聴き方=聴き型」を論じるならば、カラヤンを避けて通ることはできないはずである。ところが、なぜか著者はカラヤンを正面から論じていない。すでに多くの論考が発表されているから、不要とでも感じたのだろうか?それとも、どこかほかのところで書いているとか?

カラヤンのことが気になるのは、昔『レコード芸術』で、次のような面白い証言を読んだということもある。ジャンル不詳のユニークなCDを次々と作りつづけるドイツのレーベル、ウィンター&ウィンターの社長兼プロデューサーのステファン・ウィンターが、カラヤンの指揮するマーラーの交響曲第6番を聞いた時のことを回想して、「それは大変見事な演奏でしたが、曲が生まれた「場」を想起させるものではありませんでした。一方、私はCDを作る際、音楽を生まれる「場」を大切にしたいと考え、ジャケットのデザインにもこだわって、聞き手に音楽が生まれる「場」を届けようとしています」と、こんなことを述べていた。確かにウィンター&ウィンターの看板アーティスト、ユリ・ケインが演奏するマーラーなど、一見大胆にマーラーの音楽を換骨奪胎しながら、実はマーラーの音楽の出自を見事に解き明かして、マーラー・ファン必聴の内容となっている。

私はこのインタビュー記事を読んだとき、従来カラヤンの演奏に置いて「精神性の欠如」と言われてきたものは、実は音楽が生まれた「場」を想起させる力の欠如だったのではないか、でもだから、カラヤンの演奏は聴きやすいのではないかと思った。今回『音楽の聴き方』を読みながら、カラヤンの演奏を思いおこしていたが、カラヤンの問題はほとんど触れられず。この点は、著者に聞いてみたい。

ちなみに私は、カラヤンの演奏は「悔しいけれど」好きである。「場」を想起させる力の欠如に危うさを感じつつも、オーケストラをコントロールする抜群の能力に、ノックアウトされてしまうことが多い。

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