2009年10月25日日曜日

ペテルブルグのサカリ・オラモとフィンランド放送交響楽団

フランソワ=ジョセフ・ゴセック 「共和制の勝利」
カイヤ・サーリアホ 「Leino Songs」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第3番変ホ長調「英雄」

ヤン・シベリウス 「悲しきワルツ」(アンコール)ほか一曲

サカリ・オラモ指揮 フィンランド放送交響楽団、
Anu KOMSI(ソプラノ)
10月25日 フィルハーモニー大ホール 19:00~


別にオラモが聞きたかったわけでも、マニアックなプログラムに特別惹かれたわけでもなく、単に「ロシア以外のオーケストラが聞きたい!」という動機で出かけたコンサート。ペテルブルグって地元のオーケストラは耳にたこができるぐらい聞けるかわりに、国外のオーケストラを聞ける機会はそう多くない。じゃあモスクワには国外のオケが来るかというと、そういうわけでもなそうなのだが。オラモについては、名前は知っていたけど、今までCDでもラジオでもちゃんと聞いたことがなかったので、これといったイメージがなかった。どんな指揮者かお手並み拝見と思っていたら、いきなり鮮烈な赤い蝶ネクタイをして出てきたのでビックリ。今までいろんな指揮者を見てきたけど、これは初めて(笑)。

一曲目のゴセックは、今回初めて知った作曲家。よくこんなのをアウェイのコンサートで取りあげるようなあと思う。プログラムを買いそびれてしまったが(なぜか今日は、ちょっとしか用意していなかったらしい)、「共和制の勝利」とは、フランス革命を賛美したオペラを基にした組曲らしい。演奏のほうは、明らかに古楽奏法を意識した響。ティンパニなどに端的に表れている。ただし配置は両翼ではない。でも全体として中途半端な印象を与えず、小気味いい。オラモって、こんなことができる人だったのか。

二曲目はサーリアホ。オーケストラの色彩の変化、それに溶けこむ声の扱い方、うるさすぎない不協和音がちょうど好みで、いい曲だと思ったが、指揮者が響をややコントロールできていない印象あり。慣れないホールで戸惑ったではないか、という気もする。あと、前の席に座っていたおばちゃんたちが、退屈したのか時々小声でしゃべっていたのが邪魔。退屈するのはしょうがないとしても、黙っててくれないかな(ロシアの聴衆に、そんなマナーを求めるのは無理かもしれないけれど)。

三曲目のベートーヴェン(やっと「まともな」曲)も、やはり古楽の影響を意識させる演奏。でもこちらはゴセックの時と違って、演奏の方向性に迷いが見られる気がした。部分部分の響かせ方は面白いのだが(特に第二楽章の中間部とか見事だった)、最終的に「英雄」をどういう曲として提示したいのかが、見えてこない。さっそうと快速で押し切るのか、昔のように巨匠風の堂々たる交響曲とするのか、それとも…?この方向性の定めにくさが「英雄」の難しいところだと思う。3年ぐらいしてからもう一度彼らの演奏を聞いてみれば、いい演奏になっているかもしれない。

アンコールはシベリウスを2曲。「悲しきワルツ」と、もう一曲は曲名を聞きのがした。割合サラッとした演奏。

今回は、ものすごく満足というわけではないが、機会があればまた彼らの演奏を聞いてみたいと思わせる演奏会だった。

プロコフィエフの「賭博師」

セルゲイ・プロコフィエフ 歌劇「賭博師」
パヴェル・スメルコフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団、ウラジーミル・ガルジン(テノール)ほか

10月24日 マリインスキー劇場 19:00~


プロコフィエフ25歳の時のオペラ。原作は同名のドストエフスキーの小説。文豪が、実は賭博にはまってどうしようもなかったという笑い話とともに語られる作品である。原作は読んだことがないけれど、ネットであらすじを確認して、見にいった。でもその必要はなかったかも。というのも、後半、かなり独自の筋書きになっているのだ。

ネットでの情報が正しければ、原作にあるはずの「オチ」が完全になくなって、悲恋の物語になっている。いかにもオペラっぽい展開。原作を確認したいところだけれども、原語で読むのは面倒くさいなあ(←不届きもの)。原作を読めば、若きプロコフィエフの嗜好が分かりそうな気がするが。

音楽は、次の「三つのオレンジへの恋」に通じるようなサウンドである。もうちょっと実験的な響きがするかと予想していたけれど、意外と聞きやすい。音楽自体は「三つの~」のほうが好きだけれども、「賭博師」も25歳で書いたことを考えれば、なかなか充実した作品であると言える。ただこの曲、主役のテノールがほとんど出ずっぱりで大変である。

初めて聞く曲なので、はっきりと良し悪しは断言できないけど、歌手もオーケストラも作品の面白さを感じさせるレベルには達していたと思う。マリインスキー劇場の場合、そのレベルにはすぐに達するのだよね。問題はその先なのだが…。

2009年10月23日金曜日

平原綾香 in St. Petersburg

10月22日 ミュージック・ホール 19:00~

先週、日本総領事館の前を通りかかると、何やら日本人のポスターが。よく見ると「Хирахара Аяка」と書いてある。あれ、平原綾香がこの街に来るのか!?というわけで、家に帰ってネットで調べてみると、最前列の席で600ルーブル。これは安いというわけで、行くことに。普段クラシックとジャズしか聞かない人間が、600ルーブル(日本円だと2000円強といったところか)で最前列に座るなんて、ファンの方々から怒られそうだが。ちなみに今回のコンサート、大阪市とサンクトペテルブルク市の姉妹都市提携30周年を記念したイベントの一環ということらしい。

彼女の場合、デビュー・アルバムが「Jupiter」だったし、最近も「My Classics!」なるアルバムを出しているぐらいだから、クラシック・ファンとして多少の親しみは抱いていたが、歌声自体はラジオなどで何度か聞いたことがあるぐらいだった(スミマセン…)。その時は、「年に似合わない渋い声だなあ」という印象しかなかったけれど、実際に会場で聞いてみると、ラジオなんかで聞くよりずっと力強い歌声で、「この人のうまさは本物だ!」と恐れ入った次第。高音域でもかなり音が伸びやかで、それも凄い。間違いなく、生でしか味わえないものを持っている人だと思う。

今回はオーケストラ(指揮者とオーケストラの名前は失念)をバックにして、「シェヘラザード」「仮面舞踏会」「Jupiter」などクラシックのカバーに、「星つむぎの歌」など日本の歌を織り交ぜた全14曲のプログラム。最後はロシア人向けに「百万本のバラ」。途中まではもちろん日本語だったけど、最後はロシア語で歌うことにも挑戦。ゲルギエフなどと違って(?)、客席に最高のものを届けようとするプロとしての矜持がはっきり出ていた。

会場は1500席あるホールだったが、ほぼ満席。日本人も結構いたが、もちろん大半はロシア人。平原綾香のCDなんてロシアでは入手困難なのに、どこから集まってきたのだろう?お客さんの反応もとても良くて、最後はスタンディングオべーション。彼女自身も今回のコンサートに満足したらしく、また来たいと言っていた。今回のコンサートをきっかけに、彼女は活動の場を海外にも広げることになるのだろうか?彼女が新たなステップを踏みだす現場に立ちあえたとすれば、一観客としてとても嬉しい。

ゲルギエフの「戦争と平和」を聞きにいったものの…

セルゲイ・プロコフィエフ 歌劇「戦争と平和」
ワレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー劇場管弦楽団ほか

10月19日 マリインスキー劇場 19:00~


正直なところ、ペテルブルグに来て一番の期待外れは、ゲルギエフの指揮するマリインスキーであった。響は確かに非常に洗練されているし、ソロのうまさには舌を巻くこともしばしばだが、聞いていて興奮することがないのである。特にワーグナーの「リング」は退屈だった。あれで私の中のゲルギエフに対する評価は、格段に下がったと言っていい。でもこの人たちがもし本気になったら、さぞかし凄い演奏になるのでは、という予感は捨てきれずにいる。

プロコフィエフはおそらくゲルギエフが特に力を入れている作曲家だし、「戦争と平和」はテーマがテーマだけに、ゲルギエフもいつもよりは力を入れてくれるのではないか、とひそかに期待して見にいったが、これまた思いっきり期待外れ。「リング」の時もそうだったが、ゲルギエフはこちらの期待と反比例することが多い。期待しすぎということか。

このオペラは二幕構成で、第一幕は「平和」。20世紀のクラシックらしからぬ美しい旋律がたくさん出てくるが、起伏に乏しく、聞いていてどうも退屈である。こう言っては何だが、「エフゲーニ・オネーギン」(チャイコフスキー)の粗悪なコピーにしか聞こえない。実を言うと第一幕に退屈して、幕間に帰ってしまった。

期待外れだった理由は、おそらく予習用に買ったCDにもあるのだろう。今手元にあるのは、マルク・エルムレルがボリショイ劇場を指揮して1982年に録音したものだが、この演奏は「プロコフィエフってロシアのワーグナーだったのか!?」と言いたくなるぐらい、冒頭からテンションが高い。これだと第一幕も十分楽しめる。ところがゲルギエフは逆に、プロコフィエフの抒情的な側面を強調したかったようだ。その方向性自体はいいと思うのだが、緊張感が足りない。もちろん彼らは何度も演奏しているので技術的には問題ないのだが、それが悪い方向に出て「マンネリ化」の印象を受ける。熟知した曲であってもしつこいぐらいリハーサルを重ねたムラヴィンスキーなどとは対照的。

ゲルギエフの演奏に、「感動」する日は来るのだろうか?

2009年10月16日金曜日

マリインスキー劇場で聞くブリテンのオペラ―「ねじの回転」

ベンジャミン・ブリテン 歌劇「ねじの回転」
パヴェル・スメルコフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団ほか
10月13日 マリインスキー劇場 19:00~


私の好きな曲に、三善晃作曲の「響紋~オーケストラと児童合唱のための」というのがある。12分ほどの曲で、「かごめかごめ」を歌う児童合唱の上に、不協和音をかき鳴らすオーケストラがかぶさる曲だ。ここで歌われる「かごめかごめ」は、あたかも幽霊の歌声のように聞こえる。曲のテーマが「死者の呼びかけに対する生者の応答」だけれども、そこで「かごめかごめ」を使うという発想が炯眼だと思う。

なんでこんなことを書いているのかというと、子どもというのは、実は「あの世」に近い存在なのかなと思うことがあるからだ。今回見た、ブリテンのオペラ「ねじの回転」も、やっぱり「あの世」と交信する子どもの話ではなかったか。

原作はヘンリー・ジェイムズの有名な小説だけれども、恥ずかしながら未読(原作についてはこちら)。原作では出たかどうかはっきりしない幽霊は、オペラでは明確に登場する。むしろ、幽霊2人と生きている大人2人が、姉と弟の子ども2人を取りあう話だと言っていい。ブリテンが、原作と違って、幽霊2人をはっきりと登場させたのは、舞台化の都合上というより、生と死のあいだで引きさかれる子どもを描きたかったからではないか。もちろん大した根拠があるわけではないけれど、今回初めて「ねじの回転」を見て思ったのは、そういうこと。

歌手も全部で上記の6人しか登場しないが、その中では姉役のラリサ・エリーナが秀逸だった。まだティーンエージャ―だと思われるが、実によく通る声で見事だった。後半など、長女の出番はまだかなと楽しみにしていたほど。今後の成長が楽しみ。ほかには、執事の幽霊役のアンドレイ・イリュシニコフがピーター・ピアーズを思わせる声で、ブリテンの世界にピッタリであり良かった。歌手は総じて、いささか発音の明晰さは欠いていたかもしれないが、ブリテンの世界は上手く描けていたのではないかと思う。

このオペラ、室内オペラと言われるぐらい演奏者が少なくて、オーケストラの奏者が17人+指揮者。当然ソロが多いわけだけど、さすがにここのオケは上手い。

問題は観客。空席が目立ったのはしょうがないにしても、全曲の最後で最後のピチカートが鳴る前に拍手が始まってしまい、最後の音が聞こえなかった。指揮者が振りおわるまで待とうよ…。

2009年10月6日火曜日

ゲルギエフ、謎のコンサート

ベラ・バルトーク 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽

イーゴル・ストラヴィンスキー バレエ「カルタ遊び」

リヒャルト・シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」

ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団

10月5日 マリインスキー・コンサートホール 13:00~

2日に、マリインスキー劇場に勤める知人から電話がかかってきて「ゲルギエフが突然、今度の月曜日の昼にコンサートをやることを決めました。チケットは確保してあるので行きませんか」と誘われた。曲目は、バルトーク、ストラヴィンスキー、R.シュトラウスだと言う。バルトークとストラヴィンスキーは大好きな作曲家だし、R.シュトラウスは大好きというわけではないが、でもゲルギエフに似合いそうだ。というわけで、本来の業務をほったらかして行くことに。でも家に帰って、ネットでプログラムを確認してビックリ。何だ、この難曲プロは!?それも、普段彼らが演奏しない曲ばかり。音楽監督の思いつきで、なんでこんなプログラムのコンサートが、急に実現するのだ。しかも平日の真昼間から。

実際に行ってみると、さすがに満席とはいかないものの、客席はまあまあ(3分の2ほど?)埋まっていた。どこから来たのだろう、この人たちは(て、私に言われたくないよね)。ただ例によって、13時開始にもかかわらず、リハーサルが長引いたらしく、13時10分ぐらいまで会場には入れなかった。音楽が始まったのは13時半。まあ、このホールで時間通りに演奏が始まったことなんてないけど。

マリインスキー劇場のオケはとても上手いけれど、明らかに練習不足の時も多いので、期待半分、不安半分だった。聞いてみた結果は、バルトークは×、ストラヴィンスキーは○、R.シュトラウスは△。

バルトークは、指揮者も含め、明らかに練習不足。なんでよりによって、バルトークの中でも最も難しい「弦、チェレ」を選んだのだろう?この曲、どんなに上手いオケでも、相当練習しないと聴衆に聞かせられるレベルに達しないのに。「弦、チェレ」は昔、先日亡くなった若杉弘が大阪フィルを振ったのを聞いたことがある。その時、大フィルももちろん悪戦苦闘していたが、若杉弘が見事なバトンテクニックで、難所を乗り切っていたのが印象的だった。この曲は、特にライヴの場合、スラスラ弾かれるよりも、難しいポイントでオケが崩壊せずに乗り切れるかどうか、そのスリルを楽しむのが醍醐味と言っても、あながち間違いではあるまい。ただ今回は、指揮者自身が未消化で、頼りにならない。むしろオケを救っていたのは、ティンパニ。前から、この人上手いなあと思っていたが、今回も1人、正確なリズムを叩きつづけて、それを基準に「あ、今ここにいるのね」という感じで、崩壊しかけたオケが立ちなおるといった具合だった。彼がきちんと叩いていたからオケが崩壊せずに済んだようなもので、彼がいなかったら、大変なことになっていただろう。

休息後、ストラヴィンスキーの「カルタ遊び」が演奏されたが、実は私は今まで、この曲の魅力が分からなかった。いかにも新古典主義期のストラヴィンスキーらしく、耳になじみやすいメロディーはあるが、聞きどころがどこなのか、つかめない。しかしゲルギエフの演奏では、和音の面白さ、ソロの妙技などが浮びあがってきて、割と面白く聞けた。180度イメージが変わったとはいわないまでも、この曲を見直すきっかけにはなったように思う。もう一度、彼の指揮で聞いてみたいし、ほかの新古典主義期の作品(「プルチネルラ」や三楽章の交響曲など)も、聞いてみたい。

最後はR.シュトラウスの「英雄の生涯」だったが(オーケストラ、よく体力持つよなあ…)、これは可もなく不可もなくといったところか。R.シュトラウスの場合、上手いオケが音符を正確に並べてくれればひとまず満足できる。その点、ゲルギエフとマリインスキーの演奏も悪くはないのだが、6月に聞いたアシュケナージ/ペテルブルグ・フィルの演奏のほうが、より輝かしく、ヴァイオリン・ソロも艶やかだったような気がする。そりゃあ、指揮者としてオケをコントロールする能力は、ゲルギエフのほうが上だろうけどさ。

タダでチケットをもらったこともあり、大きな不満はないのだが、でもなんでゲルギエフが急に、こんなコンサートをやりたくなったのかは、最後まで分からなかった。今後のレパートリー拡大に向けて、ちょっと腕試しをしたくなったのか?

2009年10月4日日曜日

息子が振るショスタコーヴィチ

ドミートリ・ショスタコーヴィチ 祝典序曲
同上 ピアノ協奏曲第1番ハ短調
同上 交響曲第5番ニ短調
マクシム・ショスタコーヴィチ指揮、サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニー管弦楽団、イリーナ・チュコフスカヤ(ピアノ)

10月4日 D.D.ショスタコーヴィチ名称フィルハーモニー大ホール 19:00~


先の日本の総選挙の際、「世襲」ということが話題になったようだけれど、クラシックの世界にももちろん、親子2代続けて音楽家という例は、いくらでもある。ただこちらはれっきとした人気商売なので、人気が出ないことには、親がどんなに有名でもどうしようもない。

ちなみに作曲家ドミートリ・ショスタコーヴィチの息子、マクシムは指揮者になったものの、「親の七光り」が通じなかった典型例みたいに言われて、こんな感じでおちょくられていたりする。指揮者としてよりも、ショスタコーヴィチの家庭での素顔を証言してくれる人として、珍重されている面も無きにしも非ず。そのマクシムが、父の作品をたくさん初演した名門オケを使って、父の名前を冠したホールで、どのように父の作品を聞かせてくれるのか、興味本位で聞きにいった。ただロシアでもそんなに人気がないのか、3分の2ほどしか客席が埋まっていない。東京だったら、どの程度埋まるだろう?

でも結論から言えば、「あれ、結構やるじゃん」。「親の七光り」でペテルブルグ・フィルを「振らせてもらっている」のかと思ったけれど、これだけオーケストラをバンバン鳴らしてくれれば、文句ない。

最初の祝典序曲のファンファーレからして、胸がスカッとするような音。続く木管も見事。やっぱりこのオケ、上手い。最後までバンダは入らなかったけど、全く物足りなさを感じさせなかった。マクシムの振り方は、あまり器用な気はしないけれど、でもなんだか楽しそうである。

ピアノ協奏曲は、ピアニストも上手かったけど、それ以上に上手かったのがトランペット・ソロ。ペテルブルグ・フィルの首席の人(残念ながら名前は未確認。祝典序曲は休んでいた)が吹いていたが、硬質ながら、実によく飛ぶ音。この人、相撲取りみたいに肥っていて、前からオケの中で吹きまくっていたので印象に残っていたが、今日はほとんど主役状態。最後のほうは、「ピアノと弦楽伴奏つきのトランペット協奏曲」になっていた。作曲者や指揮者の意図はともかくとして、これはこれで面白かった。

メインの交響曲第5番も、見事。第3楽章のような、泣くような音楽も良かったけれど、どちらかというとマクシムの本領が発揮されるのは、第4楽章の両端部のように、派手な部分か。この曲の最後のトランペット・パート、高音が続くので、有名なオーケストラですらへたばっていることが多いのだが、今日は例の首席奏者も加わって、ちゃんと鳴っていた。今までかなり、この曲のCDを聞いてきたけど、ここまではっきりと、最後まで金管が鳴っていたのは初めてかも。

なんだかトランペットばかりが活躍していたような書き方になってしまったが(苦笑)、もちろんオケ全体が素晴らしかった。特に今日はコントラバスの真上に座っていたので、オーケストラの重心が低く聞こえたのが、好印象につながったのかもしれない。

客席はいささか寂しかったものの、終演後はスタンディングオべーションが起こっていた。こちらの人は、日本に比べて割合すぐに立ち上がるとはいえ、名演だったことには間違いなさそうだ。

2009年10月3日土曜日

ウラジーミル・フェルツマンのリサイタル

ヨハン・セバスチャン・バッハ パルティータ第1番変ロ長調
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第8番ハ短調「悲愴」
モデスト・ムソルグスキー 「展覧会の絵」
ウラジーミル・フェルツマン(ピアノ)

10月3日 マリインスキー・コンサートホール 19:00~


実はロシアに来てから、初めて行くソロ・ピアノ・リサイタル。オーケストラやオペラのほうにばかり気が行って、ソロ・リサイタルに行く機会がなかった。フェルツマンを聞くのも初めて。CDでも聞いたことがない。

フェルツマンのことは、ネットでチラチラと評判を見て、なんだか渋いピアニストのイメージがあったが、実際に聞いてみると、華やかな部分にも事欠かない。そして、とても柔らかい音の持ち主だ。

バッハのパルティータは何べんも聞いていて、今日の演奏にも何の不満も感じなかったが、実はベートーヴェンの「悲愴」を聞くのは初めて。先日のモーツァルトに続いて、偏食ぶりが露呈した。

確かにベートーヴェンの交響曲は好きだけれども、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏はあまり積極的に聞く気になれない。ベートーヴェンの持つ、「意志の力」みたいなものがむきだしになっている気がして、家では落ちついて聞けないのだ。その点、オーケストラ曲のほうが派手で楽しめる。今日、「悲愴」ソナタを生で聞いて、魅力的な曲だとは思ったけれども、まだ家で聞く気にはなれないとも思った。私が、ベートーヴェンのピアノ・ソナタや弦楽四重奏の世界に入るのは、いつのことだろう。

一番フェルツマンにはまっていると思ったのは、最後の「展覧会の絵」。私もほかの人と同じく、ラヴェルによる管弦楽版からこの曲に入った口だが、先にオケ版を聞いてしまうと、オリジナルのピアノ版が、なんだか習作のように聞こえてしまう。しかしフェルツマンは、ピアノならではの色彩感を見事に引きだしていて、これがオリジナルなのだということを思いださせてくれた。和音の響かせ方が、とても上手い人だと思う。CD録音もしているみたいだけど、この演奏の魅力が、ちゃんとマイクに捕らえられているだろうか。

次はドビュッシーとか、どうだろう。面白い演奏になる気がするのだが。

バシュメットとモスクワ・ソロイスツinペテルブルグ

ベンジャミン・ブリテン:シンプル・シンフォニー
ジョン・ウールリッチ:ウリッセの目覚め
ブリテン:ラクリメ
アルフレート・シュニトケ:モノローグ
ヨーゼフ・ハイドン:交響曲第104番ニ長調
ユーリ・バシュメット指揮&ヴィオラ、モスクワ・ソロイスツ
10月2日、マリインスキー・コンサートホール、19:00~


モスクワからペテルブルグに戻った直後に、モスクワの演奏家のコンサートを聞くという、なんだかおかしなことに。こちらではしばしばあることだが、19:00開演なのに19:10ごろまでリハーサルをしていて、結局演奏会が始まったのは19:25だった。

実を言うと、疲れていたので最初の2曲は半ば寝ていた。3曲のブリテンからまともに聞きだしたのだが、この曲、結構抽象的で難しい。他の演奏は聞いたことないけれど、今回はそういう印象を受けた。ブリテンという人は、20世紀の作曲家にしてはかなり親しみやすい曲を書いた人だし、「ピーター・グライムズ」とかとても好きなオペラだ。それでもこの人、時々ひどく抽象的な印象を与える曲を書く。ラクリメもその一つかも。

休息後のシュニトケは、さすがバシュメットの十八番である。どこをどう鳴らせばいいのか、すべて把握している。皮肉にも、ブリテンよりシュニトケのほうが分かりやすい音楽になっていた。ただそれ以上に良かったのが、最後のハイドン。これは意外だった。上手い団体なので、ハイドンのような「簡単な」曲は、かえって面白くない演奏をするのではないかと思っていたが、とても躍動感があって、楽しかった。ハイドンが曲のいろんなところに用意した仕掛けも、浮かび上がってくる。いっそのこと、一度ハイドンだけのコンサートを、彼らの演奏で聞いてみたいぐらいだ。

ロシア・ナショナル管弦楽団のモーツァルトとベートーヴェン

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調
ミハイル・グラノフスキー指揮、ロシア・ナショナル管弦楽団、エフゲーニ・ブラフマン(ピアノ)
9月30日 オルケストリオン(モスクワ) 19:00~

せっかくなので、モスクワのオーケストラもどこか聞いておこうと思い、プログラムも演奏家も一番無難そうなこれを選んだ。実はこれだけクラシックを聞いてきながら、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番をちゃんと聞くのは、これが初めて。今まで、いかに偏食してきたかが分かる。

モーツァルトは最初のシンコペーションが不安定で、大丈夫かなと思わせたが、徐々に揃ってきた。ライブにはよくあることだけど、特にオーケストラがしり上がりに調子が良くなってきた感じである。ピアニストはタッチが非常に明確。よく歌う。

ベートーヴェンは両翼配置ながら、弦楽器はかなり多め。それでもリズムが重たくなりすぎていなかったのは評価したい。曲のよさは十分伝わる演奏だったが、ちょっと詰めの甘さを感じた。たとえば、弦楽器の4分音符の打ち込みとか、やや弾き飛ばしている感じ。第2ヴァイオリンのすぐ横に座っていたので、余計耳についたのかも。

ホールは小規模、アットホームな感じで、それはいいのだが、もう少し残響があったほうが、個人的には好みである。たとえばマリインスキーのコンサートホールで今回の演奏を聞けば、もっと印象は良かったかもしれない。

ライブ・ハウス「ドム」にて

9月20日:ラディヤ・バアトゥ&シモナ・ヨリ・マカンダ

9月27日:アレクセイ・アイギ&アンサンブル4'33''

ライブ・ハウス「ドム」(モスクワ)

恥ずかしながら、いわゆるライブ・ハウスなるものに行ったのは、これが初めて。クラシック以外の音楽にも興味はあるのだけど、習慣に流れやすい人間であるため、もっぱらクラシックのホールにばかり足を運んでいた。ところが今回、モスクワでCDを漁っていた際、面白そうな場所を見つけたので、行ってみた。実はこの「ドムдом(家、ハウスの意味)」というライブ・ハウス、ロシア音楽好きの間では結構有名らしく、いろいろと実験的な試みも行っているようだ。

2回行って、2回とも面白かったのだが、いざその感想を記そうとすると、言葉が出てこない。クラシック以外の音楽を語る語彙が、自分の中でまだ十分育っていないのだなと思う。吉田秀和が、『音楽の旅・絵の旅』(中公文庫、1979年)の中で、「新しいことが新しいというだけで、意味と持つ時は、(自分の中で)もう過ぎ去った」と書いていたが、今の私にとってはまだまだ、自分にとって新しいということそのこと自体に大きな価値がある。演奏の良し悪し以前に。

特に20日のライブのほうは感想の書きようがなく、不思議な空間に連れ去られた、という言葉しか思いつかないのだが、先ほどネット上にその時の様子がアップされていたのを発見した。

http://rutube.ru/tracks/2399927.html?v=4c20811b4dc7cc76aae2ab742b962b08

27日のほうは、もっと分かりやすく、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、トランペット、トロンボーン、ピアノ、エレキベース、ドラムスというメンバーで、時々編成を変えつつ、ややロック調というか、ポップな感じの音楽を演奏していった。一曲を除いて、ヴォーカルはなし。明らかにケージの「4分33秒」を意識したアンサンブル名なので、もっと「わけのわからない」音楽を奏でるのかと思ったが、実際はとてもノリのいい音楽だった(実のところ、構えていた分、最初はちょっと拍子抜けしたのだが)。最後のほうは、リーダーのヴァイオリン奏者が興奮して飛び上がって弾いていたのが印象的。そうそう、ドラムスの生の響きってこんなのだったよねとか思いつつ、クラシックとは違う「ライブ」の興奮を味わうことができた。拍手にこたえてアンコール、何曲やったかしら?

音楽が生まれる「場」と「精神性」~岡田暁生の近著について

先日、日本からロシアにやってきた友人が気を効かせて(?)岡田暁生の近著『音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉』(中公新書、2009年)を持ってきて、そのまま置いていってくれた。最初に告白しておくと、私は岡田暁生の書くものに対して、どちらかというとネガティヴな反応を示すことが多い。同じ中公新書から出た『西洋音楽史』の描き方についても、事実上仏独伊に限定された描き方に(だから読みやすいのだろうが)疑問に思うところが多かった。でもせっかくもらったので、早速読んでみると、今回は賛同できる部分も結構あったのだが、それでも今まで通り違和感を覚えてしまう部分もあって、いささか複雑な気分である。バーンスタインの言葉を借りれば(DVD「答えのない質問」より)、「大変興味深いが、納得できない本」ということになるだろうか。

まず、どこに賛同できるかというと、特に最初のほう、音楽を聞いた感想を言葉にすることの難しさ、そのモヤモヤ感(こうやってブログを書いていると、いつも感じる)を上手く文章にしてくれていて、こういったところはさすがプロである。また、昨今の音楽産業における作為的な「感動」に対する批判(たとえば27ページ)も、もっと書いてくれと言いたくなるぐらいである。それに、現代の音楽がポピュラー音楽であれジャズであれ、19世紀に確立した「西洋音楽」の影響を大きく受けており、クラシック音楽を研究する社会的な意義が現代でもあるということも、ある程度、納得できる。

とまあ、1つ1つの文章の中には、納得できる部分が多くあるのだが、全体としてみると、読後には違和感が残った。それを乱暴に一言で言いきってしまえば「結局、あんたのクラシックの美学は宇野功芳と大差ないじゃん!」ということになる。こんな言い方をすると、宇野、岡田両氏から怒られそうだが(笑)。もう少し分かりやすくいいかえると、著者が一見、日本の教養主義的なクラシック音楽批評に対して距離を取っているように見えながら、実のところ著者のクラシック批評は、「保守本流」とでも言うべき、昔から日本で言われてきたクラシック音楽の美学と大して変わらないものになっているのではないか、という点に、私は疑問を感じたのである。

私が岡田暁生の音楽観に反発したのは、数年前に北海道新聞の夕刊に載ったエッセイを読んだときである。それは2度あったが、1度目は、もう現代の演奏家に昔のような感動を求めるのは無理だ、というものであり、2度目は日本人の演奏はテクニックは抜群かもしれないが、聞いていて面白くなく、技術的には劣る外国人の演奏のほうが面白い、というものだった。

昔の演奏のほうが感動できた、日本人は技術的には大分向上したかもしれないが…、という批評は、クラシック音楽の批評にある程度目を通してきた人ならば、1度や2度は、必ず目(耳)にしたことがあるはずである。岡田暁生のこの音楽観は、もちろん本書でも継承されていて、「上手い」日本人に対する批判(71ページや215ページ)、シュナーベル(122ページ)やフルトヴェングラー(148ページ~)に対する賛辞と、ブレンデルやポリーニに対する批判的言及(122ページ)などがその例である。

つまり、これまでの日本の音楽批評において「精神性」「深み」などの表現で語られてきた問題が、この本では「意味」「言葉」「場」などの表現に置きかえているだけであって(もちろん、この言い替え自体は重要だとは思うのだが)、著者の音楽観が、著者が距離を取ろうとしている既存の日本のクラシック批評と、それほど違いがあるとは思えないのである。たとえば、「精神性」「深み」という言葉を振りかざし、日本のクラシック・ファンに多大な影響を与えてきた音楽評論家と言えば、宇野功芳が代表格だが(ただし彼の場合、「切れば血の吹き出るような」に代表される肉感的な言葉も同時に多用し、それによって多くのファンを獲得した)、「技術偏重」のポリーニやブレンデルに対する批判、フルトヴェングラーに対する賛辞など、表現方法は違っても、最終的な演奏の良し悪しの判断に、大きな違いはない。あるいは、本書と中野雄『丸山真男 音楽の対話』(文春新書)を読み比べてみると面白いだろう。丸山真男は音楽評論家ではないが、日本の教養人とクラシック音楽の関係を考える上で、興味深い素材を提供してくれている。

著者は「西洋中心主義」やクラシック中心主義に対する批判をおそらく強く意識しており、そのせいか、本書の執筆時にずいぶんとモダン・ジャズを聞きこまれたようだが、私が思うに、著者の問題点は、他のジャンルを聞いているかどうかよりも、クラシック音楽の中で「中心と辺境」を明確に分ける、その観点ではないだろうか(この問題点は、『西洋音楽史』で如実に露呈している)。

そもそも、なぜ私が「昔の演奏家のほうが凄かった」式の批評が嫌いかというと、理由は単純で(いや、実際は私のこれまでの様々な経験の蓄積がかかわっているのだろうけど、今回は省略)、私は昔の巨匠の演奏、中でもその代表格、フルトヴェングラーの演奏に、まともに感動したことがないのである。これは趣味の問題と言ってしまえばそれまでだし、ひょっとしたら今後変わるかもしれないが、フルトヴェングラーの演奏を聞いて「立派だなあ」と思うことはあっても、共感することはない。そこで鳴っている音楽に、自分を一体化させることができないのである。しょせん、別世界で鳴っている音楽なのだ。クナッパーツブッシュも同じである。昔はトスカニーニの演奏もそれほど好きではなかったが、最近、XRCDのような非常にいいリマスタリングを聞いてから、印象がだいぶ良くなった。

さて、本書を読みながら、1つの素朴な疑問を感じた。それは、著者がカラヤンをどのように思っているかという問題である。戦後、クラシック音楽のあり方を変えたのがカラヤンであることは、これまでたびたび指摘されてきたことであり、クラシック音楽の「聴き方=聴き型」を論じるならば、カラヤンを避けて通ることはできないはずである。ところが、なぜか著者はカラヤンを正面から論じていない。すでに多くの論考が発表されているから、不要とでも感じたのだろうか?それとも、どこかほかのところで書いているとか?

カラヤンのことが気になるのは、昔『レコード芸術』で、次のような面白い証言を読んだということもある。ジャンル不詳のユニークなCDを次々と作りつづけるドイツのレーベル、ウィンター&ウィンターの社長兼プロデューサーのステファン・ウィンターが、カラヤンの指揮するマーラーの交響曲第6番を聞いた時のことを回想して、「それは大変見事な演奏でしたが、曲が生まれた「場」を想起させるものではありませんでした。一方、私はCDを作る際、音楽を生まれる「場」を大切にしたいと考え、ジャケットのデザインにもこだわって、聞き手に音楽が生まれる「場」を届けようとしています」と、こんなことを述べていた。確かにウィンター&ウィンターの看板アーティスト、ユリ・ケインが演奏するマーラーなど、一見大胆にマーラーの音楽を換骨奪胎しながら、実はマーラーの音楽の出自を見事に解き明かして、マーラー・ファン必聴の内容となっている。

私はこのインタビュー記事を読んだとき、従来カラヤンの演奏に置いて「精神性の欠如」と言われてきたものは、実は音楽が生まれた「場」を想起させる力の欠如だったのではないか、でもだから、カラヤンの演奏は聴きやすいのではないかと思った。今回『音楽の聴き方』を読みながら、カラヤンの演奏を思いおこしていたが、カラヤンの問題はほとんど触れられず。この点は、著者に聞いてみたい。

ちなみに私は、カラヤンの演奏は「悔しいけれど」好きである。「場」を想起させる力の欠如に危うさを感じつつも、オーケストラをコントロールする抜群の能力に、ノックアウトされてしまうことが多い。