2009年9月5日土曜日

ショスタコーヴィチの未完の交響曲―1945年の断章




しばらくコンサートに行く予定もないので、その間にコンサート以外のことを。

最近ナクソスから、ショスタコーヴィチが1945年に書いたと思われる未完の交響曲の断章が収録されたCDが出て、話題になった。流行(と言っても、ものすごく限られた範囲内での)にすぐ流される私も、i Tunesでダウンロードして聞いてみた(ロシアでもナクソスのCDを購入することは一応可能だが、日本ほど出回っていない)。パッと聞いた感じでは、7番や8番に通じるような鋭さがもう少しほしいと思ったのだが(この印象は曲と言うより、演奏に対する印象かもしれない)、街のCD店でDSCH社の楽譜を見つけたので購入。中の解説を読みながら楽譜を眺めてみると、ショスタコーヴィチ・ファンにはいろいろと興味深い発見がある。

まず驚くのはその巨大な編成。書きだしてみると、以下のようになる。
ピッコロ2、フルート2、オーボエ3、コール・アングレ、Esクラリネット、クラリネット3、バス・クラリネット、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン4、トランペット4、トロンボーン4、チューバ2、ティンパニ、小太鼓、シンバル、シロフォン、弦楽5部
ものすごい張りきって、大交響曲を作ろうとしていたのでは…?しかもこれは同じDSCH社から出ている交響曲第10番の楽譜の解説と併読すればよりはっきりすることだが、どうもショスタコーヴィチはベートーヴェンの交響曲第9番を明確に意識し、合唱と独唱付きの交響曲を書く意思を当初持っていたらしい。ところがこの構想は頓挫。結局出来上がった交響曲第9番は、ショスタコーヴィチの15曲の交響曲の中でも最も小規模なものに。もちろんこれはこれで素晴らしい曲だけれども、ショスタコーヴィチがなぜ当初の構想を放棄したか、その理由は現在のところ不明。

それでもショスタコーヴィチはあきらめていなかったらしく、1947年には手紙の中で、「交響曲第9番ではなく、第10番が7番、8番との三部作をなすようにしたい」と語っているらしい。ところが実際に、第10番が出来上がったのは、スターリンの死後、1953年のこと。これまで交響曲第10番は、スターリンの死後、すぐに書かれたと見られていたし、第一作曲者本人がそのように語っている。現在では評判の悪い『ショスタコーヴィチの証言』の影響もあり、10番というのは「スターリンの死を受けて書かれた交響曲」というイメージが強かったのではないか。

もちろん、本腰を入れて(この言葉もまた曖昧だが)交響曲第10番を作曲したのが、スターリンの死後だと解釈すれば、別に問題はない。ただ(これはナクソス盤の解説にも書かれているようだが)未完の交響曲のモチーフが、やはり未完に終わったヴァイオリン・ソナタを経て、交響曲第10番に使われており、1951年には、この部分を知人にピアノで披露しているらしい。「ショスタコーヴィチをめぐる証言」というのも、ちょっと眉に唾をつけて聞いたほうがいいのかもしれないが、それでも交響曲第10番の萌芽は、これまで考えられていたよりもずっと早く、完成の10年近く前から生まれていたようだ。

ちなみに、未完の断章から10番に受けつがれた部分というのは、ナクソス盤でいうと2分42秒あたりから、クラリネットとオーボエが奏でるメロディー。これが交響曲第10番の第1楽章、練習番号41からに受けつがれる。第1楽章の折り返し地点を少し過ぎたあたりである。

一好事家による比較の印象を述べさせてもらうと、譜面は確かによく似ているのだが、聞いた感じはかなり違う。未完の断章のほうは、やや皮肉っぽさを感じるのに対し、10番のほうは荘厳な悲劇といえばいいだろうか。印象論を続けさせてもらえば、10番の冒頭、チェロとコントラバスで示されるモチーフが、すでに断章から来ているような気がする…、と思ったら、実はこの部分と類似した音の進行が、断章と交響曲第10番をつなぐ位置にある、未完のヴァイオリン・ソナタの冒頭に現れているらしい。探せば、もっといろいろな発見がありそうだ。

何がともあれ、今後の研究の進展に、期待したい。

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