2010年1月29日金曜日

1月26日(火)~モーツァルト週間2010を聞きに行くⅢ

朝、ホテルをチェックアウトし、そんなに時間もないので、分離派館に行ってみることにする。その途中、ヴォティーフ教会に寄ってみる。ここが素晴らしかった。もちろん教会内のステンドグラスも美しいのだが、一番ほっとしたのは、この巨大な薄暗い礼拝の空間に、ほとんど自分ひとりしかいなかったこと。観光客だらけだったら、こんなに感動しなかっただろう。なんだか立ち去りがたくなって、iPodを取りだし、バッハのマタイ受難曲から3曲聞いてみる。あまりにも似合いすぎだと思いつつ、天井を眺めていた。昨日見たどの美術館・博物館よりも、満足した。

今回の旅に持ってきた吉田秀和の本の中で、「美しさとは、君が誤解している証拠だ」というニーチェの言葉が引用されている。この言葉の出典は分からないけれど、でも確かにニーチェの言うとおり、私は誤解しているのかもしれない。そんなことを考えつつ、教会を後にして、分離派館に向かう。ここでも私はまた同じことを繰りかえした。ここの展示品は、クリムトのベートーヴェン・フリーズである。教会ほどではないにしろ、ここも人が少なかった。そこでまたiPodを取りだし、今度はベートーヴェンの第九の第4楽章を聞ききつつ、ゆっくりと作品を眺めていた。

今までクリムトというのはそれほど好きな画家ではなかったが、ベートーヴェン・フリーズは「美しい」と思った。絵そのもののみならず、絵が設置されている地下室の空間自体が、とても清涼感にあふれていた。クリムトってこんな画家だったのか。

その後、鉄道でザルツブルグへ移動。車窓から見えた雪景色は、どこかしら北海道の雪景色に似ていた。

2時間40分でとうとうザルツブルグ駅に到着。外に出るとバスターミナルがあって、商店街があって…。何だが日本の地方都市に来たようだ。そこから、こっちの方角でいいのか多少不安に思いつつ、雪道の中、旅行カバンを引きずり歩く。無事、モーツァルテウムのチケットオフィスへ着き、チケットを受けとることができた。ホッとする(実際にチケットを手にするまで、モーツァルト週間の演奏会を聴けるというのが信じられなかった)。ホテルに荷物を置いた後、さっそく今晩のコンサートを聴きにいく。狭い通りを歩いて会場に向かうが、ウィーンよりザルツブルグの雰囲気のほうが気に入った。ウィーンの都会的な華やかさはペテルブルグでもある程度味わえるが、ザルツブルグのように地方でこぢんまりとしつつ、昔年の「美しい」(また!!)面影を残しているヨーロッパ的な都市というのは、ロシアにはない。駅に降り立った時、ロシアではなく日本の地方都市を思いだしたのは、そのことと関係しているのだろうか。

ただし街中を埋めつくしているモーツァルトの顔、顔、顔にはちょっとたじろぐ。モーツァルト週間にザルツブルグに来て、モーツァルトの顔にたじろぐのも変かもしれないが。

会場に向かう途中で、トルコ系の人たちが経営していると思われるレストランに入って、ケバブを食べる。ウィーンでもザルツブルグでも、いたるところでケバブが売られているのには驚いた。それだけトルコ系の人たちが来ているということだろうか。確かに安くて腹が膨らむので、需要が高まるのも分かる。ロシアではシャヴェルマ(シャウルマ)というよく似た食べ物を時々食べているが、最近食傷気味。でもオーストリアのケバブは食べられた。

会場には、開演の一時間以上近く前についてしまったが、すでに建物の中に入ることができた。何とも立派なホール。そして、立派な服を着た人々。案の定、日本人の姿もチラホラ。慌ててトイレに入って、雪道で汚れた靴を磨く。

ミンコフスキの見事な指揮に耳を傾けながら、ふと暗い会場を見渡すと、1400席ほどある会場の席がほぼ埋まっている。この光景は、まさしく「豊かさ」の象徴だと思った。精神的にも物質的にも。でもこの「豊かさ」は一体何によって支えられているのだろうか、不安になる。今朝テレビで見た、ハイチの地震のことが頭をよぎる。あの世界とこの世界は無関係なのだろうか。美しい服に身を包んだ大勢の紳士淑女がオペラを聞いている、その世界に身を置いてみると、言いしれぬ不安に襲われた。

(写真は演奏会場となった「モーツァルトのための家」のベーム・ホール)

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