2010年1月30日土曜日

旅のお供に~吉田秀和『音楽の旅・絵の旅』

  • 吉田秀和『音楽の旅・絵の旅』(中公文庫)1979年
今回のオーストリア旅行に持っていったのが上記の本。昨年の5月に一度読んだが、今回もう一度読んでみたくなった。本の内容は、1976年のバイロイト音楽祭を中心とした旅行記なのだが、タイトルの通り、その際に聞いた音楽と美術館で見た絵画の印象を、いつもながらの美しい日本語で綴ってある。もちろん単に美文なだけではない。音楽評論家としての吉田秀和の卓見を印象付けるのは、この時点ですでにシェロー演出による「ニーベルングの指環」の価値を、はっきりと認識していること。単に文章が上手いだけの人ではないことが、このことからも分かる。

私が一番気に入っているのが、「ナショナル・ギャラリーにて」という54ページから67ページまでの短い章。ここで著者は、「芸術とは何だろうか?」という大きな問題を考察している。換言すると、芸術と人生の関係を考察している(芸術というと堅苦しいが、ここでは音楽と絵画の両方を指す言葉である)。芸術と人生は別個に存在するものなのか(ルノワール、モネなど)、芸術は人生に対し対等の立場で問いを発するものなのか(カスパール・フリードリヒなど)、あるいは、芸術とは「人生の精髄を集約し」「人生をすっぽり包んでしまう」ものなのか(ヴァーグナー)。よくある問いかもしれないが、吉田秀和の文章で読むともう一度考えざるをえない。特にヴァーグナーに対する筆致は熱いものがあるだけに読ませる。今回、ヴァーグナーを聞く機会はなかったものの、私は「芸術」に何を求めているのか、答えのない問いを考えざるをえなかった。

また、その後の章に出てくる「私は、新しいことを経験するために生まれてきたわけではないということを、このごろになって、しみじみ思うようになった」という言葉は(71ページ)、今の私にとって重い。今回の旅は新しいことの連続で、まさしく「新しいことが、新しいというだけで」十分意味を持っていたのである。

前回は読みおとしていた、「何かが「美しい」と感じられたら、私たちは気をつけなければならない。「美しさとは、君が誤解した証拠だ」(ニーチェ)」はバイロイトの感想を述べている個所、40ページに出てくる。これも、今回の旅で折に触れて思いだした言葉だ。

10年後ぐらいにこの本を読みなおしてみれば、また新しい発見があるかもしれない。もっとも10年後、私はどこで何をしているか、全く予想できないけれど。

2010年1月29日金曜日

モーツァルト週間のクルターク~「カフカ断章」を聞く

  • ジョルジ・クルターク:カフカ断章

パトリシア・コパチンスカヤ(ヴァイオリン)、アンナ・マリア・パーマー(ソプラノ)

1月28日 モーツァルテウム大学 15:00~

モーツァルト週間は当然モーツァルトの音楽の特集であるが、モーツァルトのみならず、現代作曲家の作品も取りあげる。今年はクルタークの年らしい。ちなみに来年のプラグラムを見ると、ハインツ・ホリガーの作品が並んでいる(←聞きにいきたい…)。採算は合わないだろうが、こうした取り組みが長期的に見て、クラシック音楽の発展を支えているのだろうと思う。主催者の意図を汲むためにも、モーツァルト週間でクルタークの作品を聞いてみたかった。

もとより、そんな義務感だけで聞きにいったわけではなく、クルタークは昔「墓碑(Stele)~大オーケストラのための」という作品を耳にして以来、注目していた作曲家だったので、むしろ喜んで聞きにいったというのが実情。しかもヴァイオリンを担当するのが、自由奔放な「クロイツェル・ソナタ」で賛否両論を巻きおこしたパトリシア・コパチンスカヤ(でも私自身は未聴なんですが…)。これは行かない手はない。

案の定、一昨日、昨日のようには人が押しかけていない。300人しか入らない室内楽用(兼会議室?)の小さなホールにもかかわらず、あんまり席は埋まっていなかった。でも現代音楽のコンサートなら、オーストリアとはいえこんなものだろう。もちろん、作曲家ご自身の姿も拝めた。

「カフカ断章」はECMから出たCDを持っていたが、さすがに音だけで、しかもドイツ語がさっぱり理解できない人間には、1時間以上集中して聞くのは難しい。そういうわけで、パソコンにも取りこまずロシアに来てしまったのだが、よくあるパターンで、生で接するととても面白い。相変わらずドイツ語は全く理解できないのに。パーマーもコパチンスカヤも、顔を千変万化させる演奏=演技、まさしくperformance。昨日はなかったインスピレーションの働きかけが、今日はあった。

おそらくクルタークの楽譜は綿密に書きこまれているはずだが(なんでも、事細かに演奏者に向かって指示を出す人らしい)、2人の演奏はまるで即興演奏のよう。1時間以上、舞台の上に視線が釘付けだった。クルタークの作品には、叫ぶような声、かすれるような音など、ノイズが多く出てくるが、それらが「音楽」として昇華されている。これでテキストがロシア語なら、モスクワのライブ・ハウス「ドム」で演奏されてもおかしくない。ロシアで同じような空気に出会いたければ、クラシックよりもむしろ実験的なジャズのコンサートに行ったほうが確実である。

大いに満足して帰路についたが、演奏会直後に遭遇した思わぬエピソードについては、別稿を参照。

1月28日(木)~モーツァルト週間2010を聞きにいくⅤ


朝から雪が降っている。これではホテルから駅に向かうのが大変ではないか。歩ける距離でバスに乗るのももったいない気がするし。

それはともかく、朝、ホテルをチェックアウトした後、マクドナルドでコーヒーを飲みながらメールをチェックし(ホテルではインターネットが使えなかった)、その後、CD屋を見つけたので中に入ってみると、店員さんが親切にいろいろ勧めてくれる。どうやら試聴できるらしいので(ここに限らず、オーストリアでは試聴可能な店が多いようだ)、調子に乗って30分ばかりあれこれ聞いてしまう。これは何か買って出ないとまずいだろうと思い、一番気に入ったWinter & Winterの"Escenas de la Ciudad" というラテンもののCDを購入。このレーベルお得意の、日常的な雑踏の音をバックに哀愁を帯びたラテン音楽が流れるというパターン。21ユーロ。日本で買ったほうが安いだろうが、当分日本に帰る予定もないし、ロシアではたぶん買えない。この際購入しておいても損はないと思った。本当はドイツのジャズのCDを買いたかったのだが、これといったものが見つからず。でもよく考えてみれば、Winter & WinterやECMのようなレーベルが活動していることが、ドイツのジャズ界の現状をよくあらわしているのかもしれない。もちろんこれらのレーベルは本拠地がドイツ(しかも両社ともミュンヘン)にあるというだけで、所属のアーティストは多国籍なのだが、そのことをとやかくいってもあまり意味はないように思う。

その後、モーツァルトの生家、カラヤンの生家(正確には幼少期に暮らした家らしい)を見てまわる。中には入らなかったが、少しばかり感嘆してしまう。特にカラヤンの生家の前から見える風景は美しい(写真)。この風景を見ながらカラヤンは育ったのか。次に、やっとモーツァルトの家に行って有名なモーツァルト一家の肖像画を見る。そしてまた昨日行った楽譜店に行って、バルトークの「弦チェレ」のスコアとシューベルトの「冬の旅」のチェロ版の楽譜を購入。こうしたCDや楽譜の充実度はロシアではありえない。ましてや地方都市では。でも今度のクレジットカードの明細を見るのが怖い。

今回の旅、最後の演奏会はクルタークの「カフカ断章」全曲。自由席なので、早めに会場に到着。

演奏会終了後、駅に向かって荷物を引きずりながら歩いていると、前のほうに見覚えのある女性の姿が。あれ、さっきまでヴァイオリンを弾いていたコパチンスカヤではないか!こんな有名なアーティストが、演奏会終了直後になんで一人で歩いているの!?そんなバカなと思いつつ、恐る恐る声をかけてみると、やっぱり本人だった。どうも何かの手違いで、一人で歩く羽目になったらしい。気さくにしゃべってくれる人だし、せっかくなのでサインをもらおうとしたら、「なんで?」と聞かれて…(автографではなくподписьをお願いされたと思ったらしい)。この人、ファンからサインをねだられたことはないのだろうか?そうこうするうちに、迎えの人がやって来た。そこで彼女、別れ際に、サインの代わりにメールアドレスを書いてくれた。送ったところで返事が来るかどうかは分からないが、旅の最後にいい思い出ができた。

列車の中ではブログの原稿を書き、ベルクの「ヴォツェック」を楽譜を見ながら聞いてみる。疲れている時にこんなことをするなんてと我ながら思ったが、でも最後まで聞いてしまった。スコアの細かい分析はできないが(ましてやベルクの曲など)、それでもスコアを片手に聞いてみると、今まで聞こえなかったいろんな音が聞こえてくる。

8時20分ごろ、ウィーンに到着。ホテルにチェックイン後、近くにあったペルシャ料理のレストランに食べに行く。これが美味しかった。一見カレーのような、でも全然辛くないルーと、食べたことのない不思議なお米の組みあわせ。そもそもペルシャ料理なんて、今まで全然食べたことなかった。ウィーンで思わぬ初体験。

明日の早朝、とうとうペテルブルグに戻る。

ウィーン・フィル初体験記

  1. フランツ・シューベルト:交響曲第5番変ロ長調
  2. ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調
  3. フランツ・シューベルト:交響曲第7番ロ短調「未完成」

ニコラウス・アーノンクール指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、レイフ・オヴェ・アンスネス(ピアノ)

1月27日 ザルツブルグ祝祭大劇場 19:30~

モーツァルト週間の目的の一つは、とにかくウィーン・フィルを聞くこと。実は今まで一度も生でウィーン・フィルを聞いたことがなかった。オタクとしては、とにもかくにも一度は生でウィーン・フィルを聞きましたという「アリバイ証明」がしたかったのだ。ついでに言うと、アーノンクールもアンスネスも生で聞いたことがない。そこで3者いっぺんに初体験ができて、絶対にハズレなさそうなプログラムということでこれを選択。125ユーロと高かったが…。こんな高いチケット、買ったことがない。でも少なくともネーム・ヴァリューの点からいえば、125ユーロもうなずけるようなおそらく現在最高の組みあわせで、これで演奏が面白くなかった日には、さてどうしようか…。

ところが、結論から言えば「さてどうしようか…」となってしまったのだ。聞いていて、なぜか今一つのめりこめない。もう少し正確に言うと、インスピレーションが湧いてこないというのか。昨日のミンコフスキは、一音一音がインスピレーションの塊だったのに。

もちろんウィーン・フィルの弾くシューベルトとモーツァルトであるから、耳をそばだててしまう瞬間は何度もあった。ニュアンスに富んだ音の鳴らし方、切り方。しかし同時に、意外と平凡な音を出すなあという瞬間も何度かあったことも事実。結局、彼らの出す様々な音が自分の中で焦点を結ばず、一つの音楽にならない。今日演奏しているのはウィーン・フィルだったよねと、演奏の最中にプログラムを確認したくなったほど。

もちろん、イチローや松井秀喜でも全くヒットの打てない日もあるわけで、ウィーン・フィルだからと言って、毎回毎回、そんなにすごい演奏をしているわけではあるまい。今日の出来は野球に例えると、全打席凡退というわけではもちろんないが、4打数1安打といったところか。世界一と言われる底力を発揮するには至っていなかった。

強烈なアクセントのついた音の出し方に、かつてのアーノンクールらしさが出ていたが、でもこの人は、現在ではむしろ良くも悪しくも巨匠風の大きな構えの演奏を聞かせる人なのかもしれない。「未完成」の頭など、「えっそんなゆっくり始めるの!?」というぐらい遅めのテンポ。かつて激しい賛否両論を巻き起こした、アーノンクールらしい「汚い音」も特に聞かれず。聞く前から予想はついていたが、同じ「古楽器派」と言っても、ミンコフスキとアーノンクールでは全然方向性が違う。そもそも「古楽」などというくくり方自体が、すでに古いのだろう。一方、アンスネスはむしろフォルテピアノを意識したような、あえて華を抑えたような弾き方。指揮者とピアニストの間で、いささか方向性に違いがあったように感じたが、気のせいだろうか。

そういえば、ピアノ協奏曲の長い序奏部分で、アンスネスがすでにオーケストラの低音部をなぞるようにして音を出したように聞こえたが、これも気のせいか?へえ、こんなやり方もあるんだと思いながら聞いていた。いや、別に大した問題ではないのだが。

ついでに書いておくと、今日はコンマスではなくコンミス、つまり女性のコンサートマスターだった。とうとうウィーン・フィルのコンサートマスターの席に、女性が座る時代が来たか。

1月27日(水)~モーツァルト週間2010を聞きに行くⅣ


朝、ザルツブルグの一番の観光名所と思われるホーヘンザルツブルグ城へ向かう。この城、山の上から街を見下ろすようにしてそびえ建っていて、ロシアから来たものにはクレムリンのようにも見える。実際、クレムリンのようなものかもしれない。ところが今の季節、城に行くためのロープウェイは休業中。しょうがないので、ふもとにある大聖堂に行く。

今は観光客が少ないので、やっていなかったり部分的にしか公開していなかったりするところが多いのは残念だが、その代わり、一つひとつの名所はほかの人に邪魔されず(換言するとほかの人の邪魔をすることもなく)、ゆっくりと鑑賞することができる。大聖堂、カタコンベ、ザルツブルグ大司教の宮殿、パノラマ・ミュージアムと見てまわったが、いずれもゆっくりと味わうことができた。教会には巨大なパイプオルガンが設置されていたが、こういうのを見ると、西洋音楽の源が宗教音楽にあるという話を思いだす。大司教の宮殿では、モーツァルトの初期作品がいくつか初演されたらしい。その意味でも興味深いが、これ見よがしの派手な内装を見ていると、モーツァルトが大司教の権威を嫌ってザルツブルグから逃げだしたのも納得できる。ミュージアムは、特に最初の絵画の展示が気にいった。館内に流れていたプリペアード・ピアノの音(ジョン・ケージの作品?)と、抽象絵画が見事にマッチしていた。そんなに有名な画家はいなかったが、展示物の質は決して低くない。ザルツブルグの歴史を紹介するコーナーも、いろいろと見せる工夫がしてある。ただし充実しすぎて、いつものごとく最後のほうは息切れ。適当に飛ばさざるをえなかった。

その後モーツァルトの家に行ってみるが、この日は午後から休業。明日に回す。ただし横のお店の地下で、大量の楽譜を発見。狂喜して楽譜漁りを始める。その結果買ったのがベルクの「ヴォツェック」全曲。58ユーロ。日本でも1万円程度で売っているはずなのだが、抑えがきかなかった。

その後はホテルに戻り、ウィーン・フィルの演奏会に備える。40分ほど前に会場についたが、昨日以上に立派な服を着た紳士淑女の世界。もちろん、日本人と思しき姿もよく見かける。後ろのほうの席だったが、客席を観察すると、明らかに白髪、または髪の毛が薄くなっている頭が目立つ。ウィーン・フィルがドイル語圏(あるいはヨーロッパ)で持つ、社会的意味が窺える。

演奏については、別稿に記したとおり。しかし昨日のように、不安に苛まれることもなかった。演奏にそれほどのめりこめなかったからか。昨日の私は、幸せだったのかもしれない。

ミンコフスキのモーツァルト「イドメネオ」

  • ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト:歌劇「クレタの王イドメネオ」

マルク・ミンコフスキ指揮、ルーブル宮廷音楽隊、エストニア・フィルハーモニー室内合唱団、リチャード・クロフト(テナー)ほか

1月26日 モーツァルトのための家(旧ザルツブルグ祝祭小劇場) 19:00~

10日間続くモーツァルト週間には聞いてみたい演奏が目白押しだけれども、もちろん全期間ザルツブルグに滞在している時間も金もない。どうしようか迷っていた時、基準になったのがこのコンサート。ミンコフスキが指揮するモーツァルトのオペラは何としても聞いてみたかった。しかもこの日のチケットならば、昨年末の時点でまだ立ち見席(わずか8ユーロ!)が残っていたので、とにかくこれに行こうと決意。

ずっと立って聞く覚悟だったが、会場が暗くなり、オーケストラのチューニングが終わった時点で近くを見ると、空いている席がある。どうやら来ないらしいので、座ることにする。結局最後まで座ることができた。

ミンコフスキのモーツァルトは「ポントの王ミトリダーテ」をDVDで持っていて(リチャード・クロフトも出演している)、それがとても気に入っていたので今回の演奏にも期待していたのだが、全く期待通りだった。「ミトリダーテ」のときと同じく躍動感あふれる素晴らしいもので、文句なし。モーツァルトが作曲時に得ていたであろう霊感が、ミンコフスキの棒を通して、こちらにも伝わってきたような気がした。後半の舞台が始まる際、ミンコフスキが出てきた途端に盛大な拍手が起こって、早くもブラボーの声まで飛んだのには少し驚いたけど、それぐらいの名演だった。

大体ロクにストーリーも把握していないのに(ネットでチラッと確認した程度)、十分楽しかったのだから、ストーリーをちゃんと押さえていれば、もっと楽しめたはずだ。オペラのストーリーをもっと予習してくれば良かったと後悔した。そうすれば、このブログにもっと具体的な感想を書き込めただろうに。

演出についてはYouTubeでも視聴可能だが、かなり現代的なもの。でも決して違和感はなかった。むしろパズルのように次々と組み合わされて変化する舞台装置が、見ていても楽しかった。ちょっと驚いたのは、どうやらトロイとの戦争を白人と黒人の戦いに模していることで、その点でも斬新な舞台だったと思う。

視覚的な点でいえば、ミンコフスキの指揮ぶりも躍動感あふれるもので、それがそのまま音になって出ていた。しかも棒の振り方が大変きれい。(通常はカットされるらしい)最後のバレエの場面で、ダンサーに負けず指揮台の上でパフォーマンスをするミンコフスキと、舞台上の間で、視線を忙しく動かしてしまった。

1月26日(火)~モーツァルト週間2010を聞きに行くⅢ

朝、ホテルをチェックアウトし、そんなに時間もないので、分離派館に行ってみることにする。その途中、ヴォティーフ教会に寄ってみる。ここが素晴らしかった。もちろん教会内のステンドグラスも美しいのだが、一番ほっとしたのは、この巨大な薄暗い礼拝の空間に、ほとんど自分ひとりしかいなかったこと。観光客だらけだったら、こんなに感動しなかっただろう。なんだか立ち去りがたくなって、iPodを取りだし、バッハのマタイ受難曲から3曲聞いてみる。あまりにも似合いすぎだと思いつつ、天井を眺めていた。昨日見たどの美術館・博物館よりも、満足した。

今回の旅に持ってきた吉田秀和の本の中で、「美しさとは、君が誤解している証拠だ」というニーチェの言葉が引用されている。この言葉の出典は分からないけれど、でも確かにニーチェの言うとおり、私は誤解しているのかもしれない。そんなことを考えつつ、教会を後にして、分離派館に向かう。ここでも私はまた同じことを繰りかえした。ここの展示品は、クリムトのベートーヴェン・フリーズである。教会ほどではないにしろ、ここも人が少なかった。そこでまたiPodを取りだし、今度はベートーヴェンの第九の第4楽章を聞ききつつ、ゆっくりと作品を眺めていた。

今までクリムトというのはそれほど好きな画家ではなかったが、ベートーヴェン・フリーズは「美しい」と思った。絵そのもののみならず、絵が設置されている地下室の空間自体が、とても清涼感にあふれていた。クリムトってこんな画家だったのか。

その後、鉄道でザルツブルグへ移動。車窓から見えた雪景色は、どこかしら北海道の雪景色に似ていた。

2時間40分でとうとうザルツブルグ駅に到着。外に出るとバスターミナルがあって、商店街があって…。何だが日本の地方都市に来たようだ。そこから、こっちの方角でいいのか多少不安に思いつつ、雪道の中、旅行カバンを引きずり歩く。無事、モーツァルテウムのチケットオフィスへ着き、チケットを受けとることができた。ホッとする(実際にチケットを手にするまで、モーツァルト週間の演奏会を聴けるというのが信じられなかった)。ホテルに荷物を置いた後、さっそく今晩のコンサートを聴きにいく。狭い通りを歩いて会場に向かうが、ウィーンよりザルツブルグの雰囲気のほうが気に入った。ウィーンの都会的な華やかさはペテルブルグでもある程度味わえるが、ザルツブルグのように地方でこぢんまりとしつつ、昔年の「美しい」(また!!)面影を残しているヨーロッパ的な都市というのは、ロシアにはない。駅に降り立った時、ロシアではなく日本の地方都市を思いだしたのは、そのことと関係しているのだろうか。

ただし街中を埋めつくしているモーツァルトの顔、顔、顔にはちょっとたじろぐ。モーツァルト週間にザルツブルグに来て、モーツァルトの顔にたじろぐのも変かもしれないが。

会場に向かう途中で、トルコ系の人たちが経営していると思われるレストランに入って、ケバブを食べる。ウィーンでもザルツブルグでも、いたるところでケバブが売られているのには驚いた。それだけトルコ系の人たちが来ているということだろうか。確かに安くて腹が膨らむので、需要が高まるのも分かる。ロシアではシャヴェルマ(シャウルマ)というよく似た食べ物を時々食べているが、最近食傷気味。でもオーストリアのケバブは食べられた。

会場には、開演の一時間以上近く前についてしまったが、すでに建物の中に入ることができた。何とも立派なホール。そして、立派な服を着た人々。案の定、日本人の姿もチラホラ。慌ててトイレに入って、雪道で汚れた靴を磨く。

ミンコフスキの見事な指揮に耳を傾けながら、ふと暗い会場を見渡すと、1400席ほどある会場の席がほぼ埋まっている。この光景は、まさしく「豊かさ」の象徴だと思った。精神的にも物質的にも。でもこの「豊かさ」は一体何によって支えられているのだろうか、不安になる。今朝テレビで見た、ハイチの地震のことが頭をよぎる。あの世界とこの世界は無関係なのだろうか。美しい服に身を包んだ大勢の紳士淑女がオペラを聞いている、その世界に身を置いてみると、言いしれぬ不安に襲われた。

(写真は演奏会場となった「モーツァルトのための家」のベーム・ホール)

ハ短調のベートーヴェンとモーツァルト

  1. ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:「コリオラン」序曲
  2. 同上:ピアノ協奏曲第3番ハ短調
  3. ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト:幻想曲ハ短調
  4. 同上:ピアノ協奏曲第24番ハ短調

アンドラーシュ・シフ指揮&ピアノ、カペラ・アンドレア・バルカ

1月25日 ウィーン楽友協会大ホール 19:30~

とうとう足を踏みいれてしまった、ウィーン楽友協会の大ホール。さすがにホールに入るときは少し緊張。入るときのみならず、演奏の最中もずっと緊張していたような気がする。というのも、今回座ったのは舞台の端に設置された席。音響が多少劣るであろうことを承知の上でこの席を押さえたのは、ひとえにあの舞台に立ってみたかったから。会場を見渡しつつ、おのぼりさん気分で感慨に浸る。おかげで、演奏そのものよりもシフが頑張って弾き振りしている光景のほうが印象に残っているが、とりあえずコンサートの印象を記してみる。

今回のプログラム、かなり凝っている。演奏の最中に気がついたが(遅すぎ!?)、全部ハ短調で統一されているのだ。開演前から舞台の中央にピアノが置かれていたので、「あれ、最初は「コリオラン」のはずなのに。配置替えの時間がもったいないのかな」などと考えていたのだが、そんなお手軽な理由ではなくて、「コリオラン」からアタッカでピアノ協奏曲第3番に入ったのである。両曲ともハ短調なので、全く違和感はない。見事なアイディアである。楽章間もほとんど間髪入れず次に進む。後半も同じ。シフとしては、前半も後半もそれぞれ1つの曲として提示したかったようで、その意図はかなり成功していたように思う。

「コリオラン」はもう少し迫力が欲しいと思ったが、この点は別の席で聴けば、問題なかったかもしれない。続くピアノ協奏曲第3番では、さすがにピアニストとして多くの名指揮者と共演してきただけに、シフが曲をはっきりと把握している感じで、ピアノのみならずオーケストラのバランス感覚も見事だった。

ソリスト出身の指揮者って、割合きっちりと拍を出す傾向があるようなイメージが個人的にあるが、シフの場合、むしろその点は意外とアバウト。「コリオラン」冒頭の和音も、棒が振り下ろされてから音が出るまでに、独特の間が生じている。アンサンブルを整えることよりも、インスピレーションを与えることを重視しているというべきか。瞬間的には、ときどきアバドっぽい表情を見せる。ただしコンマス任せにしているわけでもなく、協奏曲で両手がふさがっている時も、一生懸命眼で指揮をしている。あるいは、右手でトリルをしながら、左手で指示を出したり。舞台上の席を選んだおかげで、シフの八面六臂の活躍ぶりを楽しめた。

それ以外に、コンサートに行って気がついたこと。

  • 観光シーズンとも思えないのに、日本人が多い。もちろん、東洋系の観客の中には中国人や韓国人も混じっているのだろうが(一度だけ韓国語の会話が聞こえてきた)、日本語が聞こえてくる頻度がマリインスキーでは考えられないくらい高い。ドイツ語圏在住の日本人が、ロシアに比べてずっと多いせいか。
  • 最後の音が鳴りひびいてから、拍手が鳴るまでに一瞬の絶妙の間がある。ロシアでは、こうした間が生じるコンサートが実に少ない。ロシアの聴衆にも見習ってほしいのだが、期待するだけ無駄か。
  • 演奏会終了後、クロークにみんな押しかけて、誰も並ぼうとせず、我先に番号札を差しだすのにはちょっと驚いた。ロシア人はソ連時代に鍛えられているせいか(?)、クロークでちゃんと並ぶ。拍手の問題とは逆に、この点はロシアのほうがマナーがいいのではないかと感じた。

1月25日(月)~モーツァルト週間2010を聞きに行くⅡ


一日ウィーンで観光三昧。見てまわったのは、リヒテンシュタイン美術館→ホーフブルグ宮殿→シュテファン大聖堂(写真)→モーツァルトの家→音楽の家。そして最後にウィーン楽友協会で、アンドラーシュ・シフの弾き振りの演奏会。楽友協会の感想は別に記すとして、それ以外の場所の感想を。

今回の旅の発見は、ペテルブルグって実はヨーロッパ的な街なのだということに、気がついたこと。何をわかりきったことをと言われそうだが、ペテルブルグで実際に生活していると、日本とあまりに違うロシアの生活習慣に悩まされることが多いため、「この非文明国のどこがヨーロッパなんだ!!」と言いたくなる。それに住みついてしまうと、観光名所にも特に関心を払わなくなるため(週に一度はエルミタージュの横を通るし)、あれらの宮殿が実はものすごくヨーロッパ的な建築なのだということを忘れてしまうのだ。

そもそも「ヨーロッパ=文明国=いい国」みたいな思い込みが、おめでたい西洋中心主義じゃないかという気もするのだが、ここではその問題は措くとして、美術館や宮殿の内装を見て「ああ、ペテルブルグにある宮殿のルーツはここだったのか」と今更ながら実感した次第。

ウィーンの街を歩いていると、確かに立派な歴史的建物物がたくさんあって、素晴らしいとは思うけれど、それならペテルブルグだって負けていないのではないかと思う。確かにペテルブルグのほうが手入れの行きとどいていない建築物が多くて、道路も汚いけれど。ペテルブルグという街は巨大な鹿鳴館ではないかと思っているが、ウィーンに来てみると、少なくとも外観は結構いい線まで来ていることが分かった。でも本当に「あれ!?」という感じである。ウィーンで「本当のヨーロッパ」に触れてしまえば、ペテルブルグに戻れなくなってしまうのではないかと思っていたが、ペテルブルグの価値を再認識することになるとは。

う~ん、なんだか書いていてバカっぽいと思う。あまりにも基本的なことばかり。灯台もと暗しということか。

ほかに気がついたことと言えば、ホーフブルグにおけるエリザベート皇后の利用のされ方。実は展示品を見るまで、シシィというのがエリザベートの愛称だということを全く知らなかった。ただ単に、一番立派そうな場所なので足を運んだのである(なんだか彼女のファンの方には悪いけど)。館内の解説を聞いていると、映画などを通じて広まった彼女のイメージは正しくありませんということを強調しているが(私の場合、その一般的なイメージというのがまずつかめていないのだけど)、一方、ホーフブルグ宮殿の中で彼女はほとんど主役であって、ホーフブルグ≒シシィになっている。しっかり客寄せパンダとして売りだしつつ、解説では脱神話化を図っているということか。観光地とは、そんなものだろうけど。

モーツァルトの家にも行ったが、これはいささか期待外れ。モスクワのスクリャービンの家やペテルブルグのリムスキー=コルサコフの家のように、作曲家が住んでいて当時の様子が残っているわけではなく、せいぜいモーツァルトが窓から眺めていた風景と同じ風景が眺められるのがメリットというところか。モーツァルトはかなりの引越魔だったらしいし、この家の住人も頻繁に変わっているらしいので、やむをえないことではあるけれど。展示品にももう少し知的刺激を呼び起こすものが欲しい(そう感じたのは、私がオタクのせいかもしれないが)。これで9ユーロはちょっと高いというのが、正直な感想。この後行った音楽の家のチケットとセットで購入すれば安くなることを知ったのは、見学が終わった後。音楽の家は、最近の音響研究の成果に触れられるコーナーが楽しい。いろいろ遊んでしまった。もうちょっとゆっくり遊びたかったが、コンサートの時間が迫っていたので、適当に切りあげる。

1月24日(日)~モーツァルト週間2010を聞きに行くⅠ

わけあって昨年末に中東欧行きの航空運賃を調べていたら、1月末のウィーン行の飛行機が12000ルーブルと意外と安いことに気がつく。これだったら出せないこともない。

ウィーンは当然あこがれの音楽の都だが、なぜか出発前、意外と気分が高揚しない。現実感が湧かないからか。ペテルブルグのプルコヴォ空港からウィーンへ、3時間ほどで着く。時差は2時間。さすがにマイナス20度の世界から来ると、マイナス2度ほどの世界でも温かく感じる。

ロシアではありえない(?)乗り心地のいいバスに乗ってウィーンの西駅に着く。本当は南駅に行きたかったのだが。まあいいと自販機でチケットを買って、トラムに乗ると、これがペテルブルグを走っていてもよさそうな汚い車両。すれ違う車両を見ているときれいなのも走っているので、一概には言えないが、なんだ、ウィーンも意外と大したことないなあと思う。街全体の清潔度は、ペテルブルグよりは上だがヘルシンキよりは下といったところか。ペテルブルグのような古風な街並みを想像していたが、思っていたより現代的な大都会の側面も併せもっている。

ドイツ語の表示しかないので困ったが、それでも正しい駅で降りることができた。あとはホテルまで歩く。次第に寒さが身にしみてくる。そのせいか、せっかく着いたのに気分は相変わらず盛りあがらない。

ホテルはやや分かりにくい場所にあったが、持参した地図を見て見つける。荷物を部屋に置いた後、夕食を食べに外へ。時計を見ると7時過ぎ。近くのイタリア料理店に入る。久々に食べたスパゲッティは美味しかったし、店主と思しきおじさんもニコニコと愛想がいいのだが、困ったことにこのおじさん、英語が全く通じない。そういえばさっきから、街の表示はドイツ語ばかりである。ウィーンなんて外国から観光客がいっぱい来るだろうに、これで大丈夫なのだろうか。こちらも英語は下手くそだが、それでも旅行をするとなると英語に頼らざるをえない。

なんとか無事会計を済ませて外に出ると、8時過ぎ。ちょっと歩きまわってみると、日曜の夜だからなのか、ほとんどの店は閉まっている。日本やロシアならば、日曜の夜でももっと店が開いているのだが。

国際的な大都市なのに、英語は通じない、店は夜になると閉まる。不便である。だが、世界中の都市で英語が通じて、そこに24時間いつでも開いているコンビニのような店が存在しているのが、いい世界なのだろうか?ふと、グローバリズムという言葉が頭をよぎる。

疲れたのでホテルに帰って早めに寝る。でも真夜中に目が覚めてしまい、このブログを書く。

2010年1月22日金曜日

Night in Galicia~挑戦する伝統音楽

  • ウラジーミル・マルティノフ:「ガリツィアの夜」
ドミートリ・ポクロフスキー・アンサンブル&アンサンブル Opus Posth
1月21日 マリインスキー・コンサートホール 19:00~

これもマリインスキーがやっている「新しい地平線」シリーズの一つ。ただクラシックと言えるかどうかは微妙。もちろん、その正体不明の感じがいいのだが。

どう正体不明かと言うと、ヴァイオリンからコントラバスまでそろった9人の弦楽アンサンブル+混声合唱なので、一見クラシックぽいのだが、音の出し方は全く非クラシック。弦楽器はビブラートをかけず、開放弦を積極的に使用し、荒々しい響を出す。マニアックな話だが、チェロとコントラバスを見てみると、弦はすべてスピルコアのようだ。

合唱を担当しているポクロフスキー・アンサンブルも、普段はロシアの伝統的な農民の歌などを歌っている団体で、以前、ストラヴィンスキーの「結婚」を「原型」に近づけた形で歌ったCDを出して、話題になったりした。今回の試みも、それと通じるものがある。すなわち、「古いものこそ新鮮だ」という点で。

最初、「アーアーアー、オーオーオー、エーエーエー」という奇矯な男声と女声の掛け合いが10分ほど続いた後、弦楽器が入ってくるのだが、基本的には男女の掛け合いで曲が進行する。その歌い方は、明らかにロシアの古い農民の歌い方を模したもの。でも同時にそれが、ものすごく斬新な音楽として聞こえる。温故知新というのは芸術の世界でよくある話だが、これはまさしくその典型。

全部で1時間以上あったが、最後の7分ほどだけ、がらっと雰囲気を変えてクラシック的な弾き方・歌い方になる。つまり、人間の声が西洋的な音楽秩序に収れんしていく過程を描いているのではないかと感じた。

実は全く同じ内容のCDが、ロシアのユニークなレーベルLong Armsから出ている。CDで聞いている段階では、変な音楽だなあとぽけっと聞いていたが、生で見てみると曲の構造が明瞭に理解できた。

衣装は黒を基調としたもので、一見それほど「ロシア」を強調していないのだが、音楽の中身はロシアでしか生まれないものだと思う。伝統を現代に生かすのにこんな方法もあるのかと、興味深かった。

2010年1月18日月曜日

現代ロシアの作曲家たち

  1. ヴャチェスラフ・クルグリク:交響曲(世界初演)
  2. セルゲイ・スロニムスキー:交響曲第21番「ゲートのファウストより」(世界初演)
  3. ボリス・ティシチェンコ:バレエ音楽「12」
ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団、オレシャ・ペトロヴァ(メゾ・ソプラノ)
1月17日 マリインスキー・コンサートホール 20:00~

大学生の頃、大阪のいずみホールで聞いた細川俊夫の演奏会に行って「現代音楽」に開眼してしまった。あの「ギギギ」とか「ドカン」とか鳴るノイズのような世界にである。大阪に住んでいたころは、いずみホールで行われる現代音楽のシリーズによく通ったし、NHK-FMの「現代の音楽」もよく聞いていた。

もちろん、現代ロシアの作曲家の作品が細川俊夫とは全然違うことは承知しているが、それでも「世界初演」と聞くと、行きたくなってしまうのである。大体、現代ロシアの作曲家の作品って、こないだのシチェドリンを除けばあまり聞いていないので、ちゃんと耳を傾けるいい機会だと思った。確かに結論から言うと、全体として、技巧的には初期のルトスワフスキかリゲティを思わせるような作品だった。でも「前衛の終焉」ということはずいぶん前から言われており、日本でも吉松隆のような人が活躍していることを考えると、こうしたロシアの作曲家の作風を「時代遅れ」と断じるわけにもいかないだろう。

最初のクルグリクは、1977年生まれ。若い。しかも今日演奏された交響曲が書かれたのは2000年だそうなので、23歳ごろの作品ということになる。2楽章構成で、アレグロとラルゲットと書いてある。最初、トランペットとフルートの変な掛け合いから始まって、そのうちだんだん盛り上がってくる。第2楽章は静かな音楽で、途中から2台のハープに乗ってフルートの(時々クラリネットが絡まる)長いソロが始まる。古代ギリシアの音楽をイメージしているそうで、ドビュッシーのシランクスあたりに似た雰囲気。ここが全曲の白眉か。ただしその後、ヴァイオリンの静かなトレモロがあってすぐに終わってしまう。なんだか尻切れトンボな気が…。後続楽章を書きたす気はないのだろうか?未完の遺作ですと言われると、信じてしまいそうな気がする。

スロニムスキーは、1932年生まれというベテランだけあって、管弦楽の扱いが上手い。オーケストラの各パートがバランス良く鳴る。作曲されたのは昨年。3楽章構成で、第1楽章が「ファウスト」、第2楽章が「マルガリートの歌」、第3楽章が「ワルプルギスの夜」と名づけられており、第2楽章にはメゾ・ソプラノの独唱が入る。独唱者の顔、なんか見覚えがあるなあと思っていたら、神尾真由子がチャイコフスキー・コンクールで優勝した際、女声部門で第2位になった人だった。見た目そのままのふくよかな声を出す人である。しかし驚いたのは、音楽の「分かりやすさ」。第2楽章なんて、ラブ・ロマンス系の映画音楽に使えそうである。と言っても、安っぽいわけではない。その一歩手前でとどまっている。この第2楽章がいいと思った。

最後のティシチェンコは、ショスタコーヴィチの弟子にして、今やロシア作曲界の代表的人物。「12」というのは、ロシアの詩人アレクサンドル・ブロークの同名の詩をもとにしたバレエらしい。1963年に作曲されて、同年キーロフ劇場(現マリインスキー)で初演されたというから、マリインスキーゆかりの作品と言える。しかし、こんな巨大な編成のバレエ音楽を書いていいのかと思うぐらいの大オーケストラ。完全4管編成に加え、ホルン6、トランペット4、トロンボーン4、チューバ2、ピアノ、チェレスタ、パイプ・オルガン、打楽器奏者はティンパニを除いて6人。おまけに4台のバヤンまで入る。そのくせ、バヤンの出番はあまりないし。ただ師匠譲りというのか、音楽は起伏に富んでいて、作品としての完成度は今日演奏された3作の中で一番高いと思った。時々ショスタコーヴィチっぽいリズムや響きが出てくるけど、全体としてはより複雑。24歳ごろの作品のはずだが、そう考えると早熟な人だと言える。

ゲルギエフは、この手の作品を綺麗に整えて聞かせるのが上手い。でもさすがに今日は、客の入りが悪かった。この演奏会、実は「新しい地平線」という現代音楽シリーズの開幕である。どう考えても採算が合うシリーズだとは思えないが、未来への投資だと思って続けてほしい。こういう催しに関しては、マリインスキーを応援したくなる。普段、採算の合わない「研究」という世界に浸かっているだけに、余計そう思うのかも。

2010年1月10日日曜日

ワシーリー・ペトレンコのマーラー

  • グスタフ・マーラー:交響曲第3番ニ短調
ワシーリー・ペトレンコ指揮、サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団ほか
1月10日 フィルハーモニー大ホール 19:00~

最近クラシック観連のサイトで評判のいいワシーリー・ペトレンコ。ポスト・ゲルギエフ世代の注目株である。1976年生まれだそうだから、実は筆者とあまり年が変わらない。ここのところ、こちらの期待と演奏の結果が反比例することが多かったので、ちょっと警戒しつつ会場に足を運んだのだが、期待通りの出来だった。いや、久々に期待以上のコンサートに出会った。イギリスを中心に人気急上昇中というのも、十分うなずける話である。

ただその演奏を言葉にしようとすると、躓いてしまう。驚くほど整理されて、メリハリのついた演奏ということは言えるけど。CDで聞くより、いろんな楽器がバランスよく聞こえてきてビックリ。16分音符のような細かい動きもちゃんと聞こえてくる。指揮も正確で分かりやすく、むやみやたらと熱く棒を振りまわすことはしない。かなり「楽譜に忠実」な演奏と言えるのではないか。

でもそれが冷たい演奏かというと、そんなことはなくて、むしろ音を聞いているうちにどんどんこちらが熱くなってしまう。第1楽章が終わった時点で、すっかり興奮している自分がいた。昔R.シュトラウスが、「指揮者は熱くなる必要はない。聴衆だけが熱狂すればいいのだ」みたいなことを言ったらしいけど、それを実行したのが今日の演奏かもしれない。若くしてマーラーの3番のような大作をここまで聞かせてしまう才能には、年が近いだけに嫉妬すらしてしまう。

どうしても一週間前に聞いたゲルギエフのマーラーと比較してしまうが、今日のペトレンコに比べれば、ゲルギエフは分が悪い。幾分きつい言い方をすれば、ゲルギエフは「上出来の凡演」とでも言うべきか。両者とも特別なことをしているわけではなく、オケの技量にも大きな差はないのに、このインパクトの違いはどこから来るのだろう?

あえて今日の演奏の課題を指摘すれば、第4楽章とか、もう少し神秘感が欲しかったということになる。でもそれは今後の楽しみということにしておきたい。勝手な空想だが、テミルカーノフの後任として、ペトレンコがフィルハーモニーの音楽監督にならないだろうか?彼ならムラヴィンスキー時代の栄光を取りもどしてくれそうな気もするのだが。

2010年1月9日土曜日

ペテルブルグのチェロ・アンサンブル

  • ムソルグスキー、ハチャトリアン、M.ルグラン、ガーシュイン等の作品
サンクト・ペテルブルグ・チェロ・アンサンブル(リーダー;オリガ・ルドゥネヴァ)
1月9日 アバメレク・ラザレフ公邸 19:00~

日本風に言えば、新春コンサートといったところだろうか。ハチャトリアンの「ガイーヌ」のような「純クラシック曲」にしても編曲に「お遊び」の要素が入っていて、全体に親しみやすい曲が並んでいた。聞いた中では、その「ガイーヌ」のメドレーが編曲が面白く、なおかつ演奏も乗っていて特に良かった。あと、アンコールの「ティコ・ティコ」も。

1人の先生とその弟子たちによるアンサンブルらしく、真中に明らかに世代が上の、貫禄のある女性が座っていて、後はみな若い。チェロ8人のアンサンブルに、時々ピアノの伴奏が加わる。教育的配慮からだろうが、先生はあまりソロを弾かず、残りの7人それぞれに見せ場が割り振られている編曲。もちろん若いといってもみんなプロなので、個人技もアンサンブルも一定のレベルには達しているのだが、個人的には向かって一番右端の女性(ナターリャ・コスチュークと言ったっけ)が印象に残った(単に近くに座っていたからかもしれないが)。最近、フィルハーモニーとかマリインスキーの良くも悪しくも慣れきった演奏に接することが多かっただけに、ある意味「初々しい」。

演奏それ自体とは関係ないかもしれないが、ふと気になったのはチケットの値段。400ルーブルである。ゲルギエフのコンサートが聞けるではないか。日本だったら重要文化財か国宝に指定されていてもよさそうな場所で弾いているので(ロシアではよくある話)、場所代も含むのだろうが、高い!いや、そうではなくて、マリインスキーのチケットが明らかに安いのである。マリインスキーの場合、ロシアを代表する有名企業がスポンサーとして名を連ねており、たぶん国庫から補助金も相当出ているはず。でもロシアの場合は、日本のように採算の取れない芸術部門の予算はカットとかいう話は、出ないのだろうか、出るわけないか…などと、演奏を聞きながら、むしろ現実の泥臭い話に思いをはせてしまった。

2010年1月6日水曜日

ペテルブルグのセーゲルスタム

  1. ヤン・シベリウス:交響曲第7番ハ長調
  2. ピョートル・チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第3番変ホ長調
  3. レイフ・セーゲルスタム:交響曲第202番「CECILIA, cessi, ...」(世界初演)
  4. ヤン・シベリウス:交響詩「フィンランディア」
レイフ・セーゲルスタム指揮、サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団マクシム・モギレフスキー(ピアノ)
1月7日 フィルハーモニー大ホール 19:00~


フィンランド出身の作曲家兼指揮者と言えばサロネンが有名で、私も好きな指揮者だが、同じ要素が揃っているセーゲルスタムの演奏も好きである。特にマーラーの録音とか好きだ。大胆なデフォルメは一見バーンスタイン風だが、でも響はずっと澄んでいる。リハーサルで楽団員をチェリビダッケ並みにいじめるという話も聞いたことがあるけど(でも、笑顔はなかなかお茶目だった)、確かに前述のマーラーなど、もしチェリビダッケがマーラーを振ってテンポ設定をもう少しまともにしたらこうなるかも、という感じである。

そのセーゲルスタムが、ペテルブルグ・フィルを振るのならば聞きにいかなわけにはいかないけれど、プログラムが変。最初と最後のシベリウスはともかく、チャイコフスキーの作品中でも特にマイナーなピアノ協奏曲第3番に、自作の交響曲202番(22番の間違いではありません)を取りあげるなんて。何を考えているのだろう?

チャイコフスキーは以前ちょっとラジオで耳にしたことがある程度だったけど、今回改めて聞いてみても、やっぱり主題の魅力の乏しさは否めないという感じである。作曲者が作曲を諦めかけたというのも、分かるような気が。聞きどころは、中間部のラフマニノフばりのカデンツァだろうか。モギレフスキーも頑張っていた(数年前、東京でとんでもないチャイコフスキーを聞かせたという噂の、エフゲーニのほうではありません。あしからず)。

シベリウスの2曲はさすがにセーゲルスタムが曲をよく把握しているという感じだが、彼の指揮ならば、もっと上級の(それこそ最高の)シベリウスを求めたい。リハーサルの時間が足りなかったのか、フィンランディアで見せたテンポの揺らし、歌わせ方など、幾分不徹底であると感じられた。それに前から2列目に座っていたこともあるのだろうが、ヴァイオリンの微妙な肌理の粗さが気になった。フィンランディア冒頭の金管のコラールなど、さすがと言いたくなる迫力だったけど。

結局、一番良かったのはセーゲルスタムの交響曲第202番かも。シュニトケの交響曲第1番を聞いたときにも感じたことだけれども、それまで「荒っぽさ」と感じていた要素が、現代曲では「力強さ」に変身する。なんでも作曲者の姉の70歳のお祝いに書いたらしいけれども、ほとんどカオス状態の凄いサウンド。でもよく聞くと、弦の和音とか意外と透明感がある。後半には、「譚盾か!?」と言いたくなるような、楽団員の叫び声が聞こえたり。でも一番驚いたのは、この曲、(おそらく)通常のオーケストラの編成であるにもかかわらず、指揮者がいないのである。指揮者なしでよくもまあ、こんな混沌とした曲を20分以上、続けられるなあと思った。これはオケの手柄。

ロシアの聴衆は正直で、前のおばちゃん達とかあからさまに顔をしかめていた。拍手も、なんだか控えめ(ブラボーも飛んでいたけど)。でも私は好きである、こういう実験的な音楽が。ベートーヴェンの時とは違って、自分で作品それ自体の評価も下せるし、予想がつかない「パフォーマンス」というのが愉しい。

2010年1月4日月曜日

マーラーのダブル・シンフォニー・コンサート

  1. グスタフ・マーラー:交響曲第4番ト長調
  2. 同上:交響曲第5番嬰ハ短調
ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団、オリガ・コンディナ(ソプラノ)
1月3日 マリンスキー・コンサートホール 19:00~

相変わらず元気な人である、ゲルギエフは。このハードスケジュールの中、マーラーの4番と5番を一晩でやってしまうなんて。仮にゲルギエフはいいとしても、オーケストラの団員は文句を言わないのだろうか?マリンスキーの団員数はかなり多いはずだが(おそらくN響の倍以上)、でも実はよく観察してみると、ゲルギエフが振る時に出演するオケのメンバーはある程度決まっていることに気がつく。しかも若い人が多い。もしかして、ゲルギエフに薫陶を受けて育った「ゲルギエフ・チルドレン」?

さて演奏の出来だが、昨日ほどではないにしても、今まで聞いてきたゲルギエフの演奏の中では、かなり上出来の部類に入るのではないかと思った。いつものようにみんな上手くて、ソロでは名人芸を披露してくれる。4番とか、一般なゲルギエフのイメージからすると彼には合わなさそうだが、綺麗にまとめていた。私見では、ゲルギエフは熱いパッションで振る指揮者ではなく、むしろアンサンブルを綺麗に整えて、洗練させた演奏を聞かせることに長けた人ではないかと思う。マーラーの4番など、決して苦手ではないはずだ。5番も、良かったのは有名なアダージェット。その後の終楽章では、珍しく低弦が気合の入ったゴリゴリした音を響かせていて、なかなか印象的だった。一方、第1楽章とか、もっとドス暗くやって欲しいなあと思う。好みの問題だろうけど。

全体的な水準は決して低くない演奏だと思ったが、現代のように猫も杓子もマーラーを取りあげる時代になると、もうちょっと何か明確な個性というか、方向性を打ちだしてほしいと思う。ゲルギエフほどの知名度のある指揮者となれば、なおさら。でももうちょっと彼のマーラーを聞いてみてもいいかも。まだ6番以降が残っているので、スケジュールが合えば行ってみたい。

2010年1月3日日曜日

ゲルギエフの名演!?~ゲルギエフ、シチェドリンを振る


  • ロディオン・シチェドリン:歌劇「魅せられた旅人」(Очарованный странник /The Enchanted Wanderer)
ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団ほか
1月2日 マリンスキー・コンサートホール 16:00~

急にモスクワからお客が来ることになり、せっかくなので何か接待しようと、比較的安く、しかも確実に手に入るこの公演に連れていくことに。「くるみ割り人形」の後、偶然にも「くるみ割り人形」という劇場近くの喫茶店で時間をつぶした。結構感じのいい、こじんまりとした店だった。

会場に入った時点では、さすがに少し疲れていて、「これは寝るかも」と思っていたが、演奏が始まると作品の面白さに一気に引きこまれてしまった。もちろん、それくらい演奏が良かったのである。今までこのブログでさんざんゲルギエフとマリインスキーの演奏に苦言を呈してきたが、この日の演奏は違った。去年さんざん聞かされた「駄演」の数々は一体何だったのかという言いたくなるぐらい、1時間45分、緊迫感にあふれていた。よりによってほとんど偶然行った公演で、なんで?作曲者が臨席しているから?毎回とは言わないまでも、もうちょっと普段から、これくらいの演奏をしてくれないだろうか。

「魅せられた旅人」は、間もなくマリインスキーの自主製作盤としてCDが発売されるらしく、HMVなどのサイトにも広告が出ている。ただ宣伝文にあるような、「抱腹絶倒」という要素はオペラ化に際してはぎ取られたらしく(原作は未読)、むしろシリアスな宗教劇の様相を呈していた。会場で買ったプログラムを訳出すると、以下の通りになる(たぶん誤訳している個所がいろいろあるはずなので、見つけ次第勝手に訂正します)。

あらすじ
第1部

ヴァラームの修道院の見習い僧である、イワン・セヴェリャノヴィチ・フリャギンは、自らの人生について回想している。少年時代のある日、彼は「面白半分に」鞭打ちによって修道僧を殺してしまった。その後、修道僧は夢に出てきて、懺悔もせずに彼の人生を奪ったことを非難した。彼がイワンに向かって語るには、イワンは神と「契約した」息子であり、本当の「死」が訪れるまで、彼は何度死んでも死ぬことができないという、「予兆」がある。そこで「契約」にしたがって、イワンはヴァラーム島の修道院に入るべきだと言うのである。イワンは信じなかったが、修道僧の予言は現実のものとなった。巡礼の最中に、彼はタタールによって囚われの身となり、彼らとリン・ペスキで10年間過ごすことになった。そこから逃げだし、故郷へ戻る道中、彼は牧人たちと出会い、イワンの馬をさばく能力を見こんだ公爵に仕えることになった。しかし、熱心にそこで3年間勤めたものの、イワンは酒に溺れるようになった。そしてある居酒屋で、彼は催眠術の能力を持った地主と出会う。同じ夜、別の居酒屋でイワンは、公爵からゆだねられたお金をすべて、美しいジプシー歌手グルーシャのために浪費してしまう。

第2部
公爵がイワンに、彼にゆだねた5000ルーブルの返還を要求すると、イワンは罪を認めて美しいジプシーの女性の話をした。グルーシャに惚れこんだ公爵は、彼女のジプシーの一団に支度金として5万金ルーブルを払い、家に連れてくる。しかし公爵は気まぐれな人物であり、すぐにグルーシャに飽きてしまう。街へ向かう途中、イワンは彼の主人が裕福な貴族の女性と結婚することを計画しており、帰路にはジプシーの女性はいないであろうことを知る。公爵は、ひそかに彼女を森の沼地に消そうとしていたのだ。しかしグルーシャは監禁から抜けだし、イワンに会って彼に恐るべき誓いを結ぶよう迫る。つまり彼女を殺すか、さもなくば彼女が、信用できない公爵とその若い花嫁を殺すというものである。グルーシャの要求を実行するため、イワンは彼女を頂きの上から川に投げ落とす。合唱が彼女の死を嘆く。幻影の中で、イワンは修道僧と彼が殺したグルーシャの声を聞く。

解説:ロシアの魂に魅せられて…
「もし「ロシアの魂」というものが本当に存在するのなら、レスコフほど信仰の問題に答えてくれる人は他にいないでしょう」とロディオン・シチェドリンが語ったのは、ニコライ・レスコフの同名の小説に基づく歌劇「魅せられた旅人」の初演後のインタビューにおいてである。
シチェドリンは、「魅せられた旅人」のジャンルを、オラトリオと類似性のある「演奏会用オペラ」と定義している。オペラの開始にテーマが要約されていて、ソリストは語り手であると同時に主要な登場人物であり、合唱が大きな役割を果たす。「このオペラは、たぶんいくらかバッハの受難曲に似ています。この曲でも、バッハのマタイ受難曲のように、主要な登場人物は第三者のように自らについて語るのです」と作曲者は語っている。しかしながら、バッハ以外にも、他の作品、特にストラヴィンスキーの「エディプス王」とは、悲劇的なプロットが無慈悲な構成となって現れている点で、関連がある。「魅せられた旅人」における、原始的なまでにあらかじめ定められた舞台上の禁欲主義は、音楽的なダイナミズムによって十分すぎるほど報いられる。シチェドリンは最高峰のプロの音楽家であり、純粋に音楽的な手法によって聴衆の耳目をつかむことができるのである。著名な作家ソロモン・ヴォルコフは、シチェドリンのオペラ「魅せられた旅人」を「ロシア的性質の根本的な部分に対するアクチュアルなまなざし」とみなしたうえで、次のように書いた。「これは、寓話オペラ、聖徒伝オペラであり、いわゆるロシアの魂の神秘を究明しようとする、真摯で敬服すべき試みである…」
エゴール・コヴァレフスキー


静謐な宗教音楽と、大胆な不協和音を組み合わせた音楽も良かったが、簡素ながらインパクトのある舞台も見ごたえがあった。さながら洗練された現代演劇を見ているよう。舞台中央に垂れ下がった巨大な綱や舞台中に植えられた枯れた葦(?)、古代の日本か朝鮮を思わせるような衣装等々、よく分からないながらも見ていて楽しかった。実を言うと、このオペラのインパクトが強すぎて、この日のメインだったはずの「くるみ割り人形」の印象がかすんでしまったほど。

演奏終了後は、ロビーでゲルギエフ、シチェドリン、そしてシチェドリンの伴侶であるマイヤ・プリセツカヤ(!)が公開トークを行っていた(上の写真はその時の様子)。プリセツカヤはさすがに今でも絶大な人気があるらしく、出てきたとたんに盛大な拍手。ゲルギエフは相変わらず元気で、のべつ幕なしにマリインスキーの今後などについて、喋りまくっていた。7時半になってもまだ喋っていて、こちらはさすがに疲れて帰ってしまったが、でもゲルギエフは8時からもう一度同じオペラを指揮するはずで…。この人、どれだけパワーがあるのだろうか。

マリインスキー劇場の新年~くるみ割り人形

  • ピョートル・チャイコフスキー:バレエ「くるみ割り人形」(ワイノーネン3幕版)
ワレリー・オヴシャニコフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団ほか
1月2日 マリインスキー劇場 11:30~


こちらでは、年末年始にいろんな劇場で「くるみ割り人形」を上演する。そもそもの劇場の数が多いので、ペテルブルグ全体での公演数も大変なことになる。日本だとさしずめ、年末に各地で第九をやるようなものだろうか。チケットが高いので、普段はバレエはあんまり見ないけれど、「くるみ割り人形」は4年半前にマリインスキー劇場で見て(ただしバレエ団は、別のところだったけど)、とてもいい思い出になっているので、もう一度見たいと思っていた。音楽も好きだし。それに今回の公演は3幕版ということになっていたので、一体どんな構成になっているのか、興味があったということもある。

「くるみ割り人形」は本来、2幕である。ところが(バレエ・ファンには常識かもしれないが)、1934年にワイノーネン版という新しい振りつけが発表されて、これだと3幕構成になる。初演版だと子どもの出番が多く、「バレエ」としての見せ場が少ないので、プロットに手を加えて、大人のバレリーナが早く登場するようにした、ということらしい。どういう風になるのかと思っていたが、要するに本来の第1幕を2つに区切って第2幕の途中から大人の主役2人が登場し、いかにもバレエ的な見せ場が満載となる。本来の第2幕はそのまま第3幕へ移行。音楽には多少手を加えているが、思ったほどの大改訂にはなっていなかった。むしろ問題があるとすれば、30分バレエを見て、その後30分休憩、また30分バレエを見て30休憩となるので、ちょっと集中力が途切れることだろうか。これは劇場の問題かもしれないけれど。

演目が演目だけに、「ここは子ども劇場か!?」と言いたくなるぐらい、たくさんの子どもが来ていた。休憩時間中には暴れまわるし、演奏の最中も話すし…。でも観賞の大きな妨げにはならなかったので、まあよしとしよう。バレエに関してはど素人なので、何も言うことはない。ただただ美しかったとしか。特に花のワルツとか絶品だったと思う。

オケは、同じマリンスキーのオケでも、ゲルギエフが降っているときと顔ぶれがかなり違うような気が。団員の振り分けは、どういう風にしているのだろう。

2010年1月1日金曜日

ペテルブルグの年越し


エルミタージュ前の広場での年越しコンサート。3つも舞台を設置して、いろいろやっていた。気温は約マイナス10度。