2010年2月28日日曜日

ヨーロッパ音楽の地下水脈?

  • 伊東信宏『中東欧音楽の回路:ロマ・クレズマー・20世紀の前衛』(岩波書店、2009年)
コパチンスカヤと知り合ったことをきっかけに、彼女のことをもっと知りたくなって、伊東信宏氏の近著を読んでみることにした。コパチンスカヤによれば、プロフェッサー・イトウは「a good friend」だそうである。それに私は昔、伊東氏の『バルトーク:民謡を発見した「辺境」の作曲家』(中公新書、1997年)を読んで、ずいぶんと刺激を受けた覚えもある。『中東欧音楽の回路』はサントリー学芸賞を受賞したこともあり、半ば期待しつつ、しかしある知人から、「あれはあまり大した本ではない」という評価も頂いていたので、半ば不安に思いつつ読んでみた。結果は後者。正直、サントリー学芸賞を取るほどのものだとは思えなかった。

もちろん、箸にも棒にもかからないというわけではなく、いわゆる「クラヲタ」の一人としては、ストラヴィンスキーの「結婚」の歌詞の分析(第2章)であるとか、バルトークの「オーケストラのための協奏曲」第5楽章のトランペットは、豚飼いの角笛を模したものではないかという指摘(終章)とかは、面白い。コパチンスカヤとその旦那の話(コラム「L氏の横顔」)にはビックリ仰天。また第4章においてなされる、なぜ従来の民族(民俗)音楽研究が、ロマのブラスバンドを研究対象として十分捉えられなかったかという考察は、門外漢から見ても非常に興味深い。

ただ読みおわって、何か新しい音楽観が得られたかというと、実のところ、あまりない。著者が「序」で述べるところによれば、著者は「世界音楽システム」の根幹が中東欧の楽師にあるのではないかと考えており、ただしこの本の目標はそれを「実証」するのではなく、「一種の発見的祖型として措定し、そこから何が見えてくるか、ということを示すことにある」という。具体的に何が見えてくるかというと、一つは「クラシック/ジャズ/ポピュラー音楽といったジャンルの枠を超えること」。もう一つは「ヨーロッパ/極東を完全に隔絶したものとしてではなく、ひとつの連なりのなかに見る、という可能性」。

しかしこうした視点がどれだけ魅力的か、あるいは著者が実際にどの程度示せているかという点は疑問。まず前者の「ジャンルを超える」という点に関しては、10年前からユリ・ケインのマーラーを聞いている身にとっては、それほど斬新な印象は受けない。別に、マーラーをベースにクラシック/ジャズ/クレズマー音楽の融合という、前代未聞の演奏をしたユリ・ケインを持ちださずとも、「ジャンルを超える」という話は最近よく聞く話で(実はちょっと食傷気味なほど)、これが音楽学の世界でどの程度「新しい」問題提起なのか、よく分からない。また本論の中で、ジャンルを脱構築するための深い考察がなされているとも思わない。

後者については、「序」で、満洲を経由した日本の西洋音楽需要とクレズマー音楽の関連が示唆されるだけで、本論の中には全く出てこない。たぶんこの点については、今後考察を進めるのだろうが。またこうしたクレズマーと日本の関連が、ともすれば安易な商業主義に利用される危険性があることは、注意しておくべきだろう(たぶん著者は、その程度のことは分かっていると思うけど)。

サントリー学芸賞受賞と聞いて、いささかきつい評価を下してしまったかもしれない。案外、著者も軽い気持ちで出した本が、思いもよらず有名な賞を受賞してしまった…とか。でもいくらユニークなCD付きとはいえ、3000円はちょっと高いような気が。特に興味のある人以外は、図書館で借りるだけで十分だという気がする。

2010年2月27日土曜日

Musica Nuda in St. Petersburg

Musica Nuda:ペトラ・マゴニ(ヴォーカル)、フェルッチョ・スピネッティ(コントラバス)
2月27日 エルミタージュ劇場 19:00~

約2ヵ月半ぶりに氷点下の世界から解放されたペテルブルグ。しかしそのおかげで、積もった雪が溶けだして街中水浸し。歩くのも一苦労。これからはそういう季節だ。

一昨日から体調がすぐれなかったので行くかどうか迷っていたが、幸い回復してきたので、足を運ぶ。今度はイタリアのジャズ。ジャズと書いたものの、実際はジャンル不詳。ベースとヴォーカルというシンプルな編成で、クラシックからポップス、彼女らのオリジナル曲まで、いろんな曲を自由自在に歌い上げる。ポップなノリを聞かせたかと思えば、狂ったように歌に没入し、ものすごく前衛的な印象も受ける。案外、ルチアーノ・ベリオの声楽作品なんかと共通するものがあるかもしれない。

休息なし、80分ほどのコンサートで、あっという間に終わってしまった。イタリアにこんなユニークなデュオがあるというのは発見。世界中を探せば、もっといろんな面白いジャズが見つかりそうだ。今、オリンピックの真っ最中だが、ジャズ・オリンピックとか開いて世界のジャズを聞き比べるのも面白いのではないだろうかと勝手に夢想する(その場合、アメリカの扱いが難しいだろうが)。

2010年2月22日月曜日

モスクワとペテルブルグのジャズ競演

  1. サンクト・ペテルブルグ・モダン・トリオ:ヴァチェスラフ・ガイヴォロンスキー(トランペット)、アンドレイ・コンダコフ(ピアノ、打楽器)、ウラジーミル・ヴォルコフ(ベース)
  2. モスクワ・アート・トリオ:ミハイル・アリペリン(ピアノほか)、アルカージ・シルクローパー(ホルンほか)、セルゲイ・スタロスチン(ヴォーカルほか)
2月21日 サンクト・ペテルブルグ・カペラ 19:00~

特に書きはしなかったが、月に3回ぐらいはジャズのコンサートに足を運んでいる。特にベースのヴォルコフのコンサートには、よく行っている。今回のコンサートも、ヴォルコフの予定を検索していたら、コンサート当日になって見つけたもの。でもお目当ては、むしろモスクワのトリオ。ペテルブルグのトリオはJFCでも普通に聞けるので。

前半のヴォルコフ達もいつも通り良かったが、でも圧巻は予想通りモスクワのトリオだった。とにかく見ていて面白い。

まずピアノのミハイル・アリペリン。ピアノ以外にも、鍵盤ハーモニカと、見たことのない不思議な楽器を演奏していた。家に帰って調べてみると、どうもクラヴィオーラというらしい。鍵盤ハーモニカとアコーディオンを合体させたような楽器。バグパイプのような…とでも言えばいいのだろうか、不思議な音がする。90年代にドイツのホーナー社が数カ月生産しただけで、製造中止になってしまったという幻の楽器らしく、どうりで見たことがなかったわけだ。

シルクローパーは、ホルン以外にもフリューゲル・ホルンと、何とアルプホルンまで持ちだしてきた。アルプホルン、映像ではよく見ていたけど、聞くのは初めて。

スタロスチンに至ってはヴォーカルを担当しつつ、次から次と民族楽器を取りだしてくる。それも、モンゴルのようでもありカレリア地方のようでもあり、またアフリカのどこかと言われれば、それはそれで納得してしまいそうな楽器の数々。

これらの楽器を駆使して、3人の男が丁々発止の掛けあいを繰りひろげる。ジャズだか何だかよく分からないけど、とにかく面白い。これこそが音楽の原点だという気がした。

アンコールではペテルブルグの3人も加わって、6人で演奏。見ていてうらやましい。

会場で「Moscow Art Trio/Live in Holland」というCDを買ったのだが、聞いてみると、この日の後半とほぼ同じプログラムだった。でも日本では入手困難かも。惜しい。

2010年2月19日金曜日

大ポスト(大斎期)のアルヴォ・ペルト

  1. エリッキ=スヴェン・トゥール:Триглоссон Трисагион(2008)
  2. アルヴォ・ペルト:カノン・ポカヤネン(悔恨のカノン)(1997)
ダニエル・ロイス指揮、エストニア・フィルハーモニー室内合唱団
2月17日 フィルハーモニー大ホール 20:00~


今、ロシアは大斎期(ポスト)の季節。要するに宗教的行事の一つで、肉や魚などを口にしてはいけないらしい。でも不信心な外国人にとっては、そんなことより、ポストに合わせて行われる合唱祭のほうが気になる。今回のペルトのコンサートも、もちろんその一環。両作とも、正教にちなんだア・カペラという渋い作品だが、大ホールにそこそこ人が入っている。

う~ん、しかしこんなところに自分のアキレス腱があるとは思わなかった。ついていけない…。普通のクラシック音楽とは明らかに違う雰囲気に包まれる。これに比べれば、バッハのマタイ受難曲なんてまだまだ俗っぽいというのか、普段のコンサートの延長感覚で聞ける。ペルトの場合(トゥールも)、どこに的を絞って聞けばいいのか分からないまま、終わってしまった。たぶん普段クラシックのコンサートに行かない人が急にクラシックを聞くと、こんな感覚に包まれるのだろうな。

実を言うと、もともと「歌もの」が苦手である。イタリア・オペラが駄目な一因もそれ。昔からあまりポピュラー音楽を聞かないのも、一つにはそれのせいだと思う。最近では合唱曲をちょくちょく聞くようになったものの、でもア・カペラとなると、まともに聞いたことがあるのはプーランクぐらいではないだろうか(なぜかプーランクは聞いていた)。

でもこういう音楽って、一度音楽の「文法」を理解してしまうと、逆にはまってしまうことがある。その点でブルックナーの音楽と同じだ(というか、ブルックナーが宗教音楽的なのだろうが)。今は分からなくても、いつかかけがえのない音楽になるのかもしれない。

《追記》
ペルトの曲はCDだと2枚組で、80分以上かかっているが、今回は1時間ほどで終わってしまった。どこかをカットしたのだろうか?

2010年2月16日火曜日

ソキエフでヴェルディのレクイエム

  • ジュゼッペ・ヴェルディ:レクイエム
トゥガン・ソキエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団、フェルッチョ・フルラネット(バス)ほか
2月16日 マリインスキー・コンサートホール 19:00~


過去ログを見れば一目瞭然だが、私はイタリア・オペラが苦手である。ロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニ、どれもダメ。あの華やかなアリアの世界が苦手。食わず嫌いかもしれないが。

でもヴェルディのレクイエムはちょっと興味があったし(といっても、まともに知っているのは有名な「怒りの日」の冒頭部分だけだけど)、最近話題のソキエフの指揮も、こういう大作でちゃんと聞いてみたかった。以前彼の指揮で「魔笛」を聞いた時は、パッとしなかったけど(ソキエフは本来Сохиевなので、ソヒエフと書いたほうが近い気もすのだが、日本ではソキエフで通っているらしい)。

今日のオーケストラは、ゲルギエフが振っているときによく見るメンバー。つまりマリインスキーの主力。冒頭、緊張感がイマイチ薄いし合唱も荒い気がする。だが音楽が進むにつれ、だんだん充実してきた。ライヴによるあるパターン。特に耳に残ったのは、サンクトゥスとリベラ・メ。特にリベラ・メでは、なぜかほとんど指揮棒を置いて振っていたが、「怒りの日」の再現部など、最初の時よりもエネルギーに満ちていたように感じた。結局ソキエフのついては…、今回も評価は留保。

今日の主役は、広告ではバスのフルラネット。初めて聞く人である。圧倒的な迫力があるというわけではないが、少し甘めの柔らかい印象的な声で、これはこれで存在感があった。

存在感といえば、大太鼓ってこんな大きな音が鳴るのかというぐらい、太鼓が鳴りまくっていた。有名な「怒りの日」など、ほとんど大太鼓協奏曲状態。出番は必ずしも多くないかもしれないが、存在感という点では圧倒的。

2010年2月14日日曜日

ストラヴィンスキーの人形劇

  1. イーゴリ・ストラヴィンスキー:兵士の物語
  2. 同上:きつね
ミハイル・タタールニコフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団、デメニ名称人形劇団ほか
2月14日 マリインスキー・コンサートホール 11:30~


「兵士の物語」はともかく、「きつね」はそう簡単にお目にかかれる曲ではない。しかも、今回は人形劇つきだという。マリインスキーが呼ぶぐらいだからきっと「子どもだまし」ではあるまいと思っていたが、いやいや「子どもだまし」どころか、かなり凝った舞台だった。

最初は「兵士の物語」。残念ながらこちらは人形劇ではなく、通常の語り(もちろんロシア語)+演奏。演奏はきびきびした気持ちのいいもの。語りも上手かったが、残念ながらまだまだヒアリングの訓練が足りないなあということを実感。いつもの通り、あらすじはネットで押さえておいたので助かったが。

続いて「きつね」。こちらはオーケストラはピットの中にもぐりこんだので、やや音がこもり気味。でも人形劇は素晴らしかった。

単純に話の筋を追うのではなく、結構抽象的なパフォーマンスが目立つ。色彩豊かでちょっとバレエっぽい。おかげで筋はよく分からない(こちらはネットであらすじを見つけられなかった。歌われるとロシア語はますますダメだし)。でも面白い。人形劇=子ども向けというのは甘かった。もちろん、質の高い子ども向けのものというのは大人が見ても楽しいもので、そう思って来たのだが、これは最初から大人向けではないのか。案の定、会場には子どもがたくさん来ていたが、子どもたちは見ていて楽しかったのだろうか?

是非今回限りで終わりではなく、人形劇とのコラボレーションを他にもいろいろ試してほしいと思う。

2010年2月10日水曜日

「ボリス・ゴドゥノフ」の初稿

  • モデスト・ムソルグスキー:歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」(1869年版)
ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団、エフゲーニ・ニキーチン(バス・バリトン)ほか
2月9日 マリインスキー劇場 20:00~


以前も書いたように、ムソルグスキーはそんなに得意な作曲家ではない。でも友人に誘われたこともあり、ロシアを代表するオペラということもあるので、出かけた。

実は今日のゲルギエフ、18:00からコンサートホールのほうでデニス・マツーエフと一緒に、ラフマニノフのピアノ協奏曲第5番(!)を演奏していたはずである。20:00開始なのはそのため。実は当初、1872年改訂版を取りあげる予定だったらしいのだが、それだと終演が0時を過ぎてしまうので、さすがに短い初稿のほうを使うことにしたらしい。誰かが「マエストロ、初稿にしておきましょう」と進言したのだろうか。それしてもそこまでして、ゲルギエフは「ボリス」を振りたかったのか?

オーケストラのメンバーも、普段ゲルギエフのもとで演奏しているメンバーは先にコンサートホールで使ってしまったらしく、いつもとは違うメンバー。それでも、演奏の技量にそれほど不足は感じさせなかった。こないだも書いたが、ゲルギエフは本当にいつリハーサルをしているのだろう。

実を言うと「ボリス・ゴドゥノフ」をちゃんと全部聞いたのは初めて。初稿だと退屈するかなと思ったが、ちゃんと最後まで着いていけた。英語の字幕を見ていればあらすじはつかめるし。以下、雑駁な感想。

このオペラって、こんなにナショナリズム色の強いオペラだったのかと思った。特に前半、やたらと「ロシア」という言葉が出てくる。それに付随して、ヴォルガ川を中心に、その周辺の都市や支流の名前も歌詞の中に出てくる。実はこの9月にヴォルガ川流域を旅行する機会があったのだが、あの時見てまわった地域って、やっぱりロシアにとって思いいれのある地域なのかということを再認識した。

ただナショナリズムといっても、ムソルグスキーの場合、ワグナーのように扇情的なゆさぶりをかけてくる場面は少ない。むしろ耳に残ったのは美しい旋律。もちろん要所要所で現れる重厚な合唱も聞きものだが、ムソルグスキーの本当の長所は、ボリスの臨終で聞かれるような抒情性ではないだろうか。これはホヴァンシチナを聞いた際にも感じたこと。

このことはゲルギエフの指揮にも言えると思う。この人、実は静かで抒情的な部分のほうが長所を発揮する。「熱いもの」を期待すると肩透かしを食らうことが多いが、そのことを認識してから割とこの人の演奏も楽しめるようになった。

2010年2月9日火曜日

ゲルギエフのマーラー~7番編

  1. ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調
  2. グスタフ・マーラー:交響曲第7番ホ短調「夜の歌」
ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団、セルゲイ・ハチャトリアン(ヴァイオリン)
2月8日 マリインスキー・コンサートホール 19:00~

これもゲルギエフのマーラーが聞きたかったというより、とにかく「夜の歌」を一度生で聞いてみたかったという動機による。これで、マーラーの交響曲で生で聞いたことないのは、1番、大地の歌、未完の10番のみになった。一番ポピュラーなはずの1番を聞いていないのが、自分でも不思議だけど。

ただその前に、ハチャトリアンの弾くベートーヴェン。最近、なぜか若手のヴァイオリニストはベートーヴェンの協奏曲を弾きたがる。演奏会で出会う機会が多い。だが昨今の若手ヴァイオリニストにとっては技術的な難易度は高くないだろうが、聴衆を引き込むのは案外難しい曲ではないだろうか。特に長い第1楽章が難物。でもだからこそ挑戦しがいがあるのかも。自分が単に上手いだけのヴァイオリニストではないことをアピールするのには、ちょうどいい曲なのかもしれない。

ただ今回のハチャトリアンにしても、ものすごく腕がいいのは分かったが(とにかく音程の取り方が絶妙!)、やっぱり第1楽章でちょっと退屈してしまった。こちらの好みもあるが、こういう人には、まだショスタコーヴィチとかプロコフィエフとかのほうが似合いそう。ベートーヴェンやブラームスに挑むのは、もう少し演奏家として成熟してからでもいいのではないだろうか。

続いてマーラー。ゲルギエフのマーラーは最高とは言わないまでも、意外と彼のレパートリーの中ではいい線を行くことが分かってきたが、今回の7番もいい演奏だった。つまり、ゲルギエフ&マリインスキーにありがちな「明らかな練習不足」でもなく、かといって「何回も演奏しすぎてマンネリ化している」というわけでもなく、そこそこ練習していてマンネリ化もしていない水準なのである。CDとしては、バーンスタイン、クレンペラー、朝比奈(!)など個性的な名盤がひしめいていて、確かにそれらに比べると今日のゲルギエフの演奏はいささかインパクトが弱いが、生演奏の醍醐味はCDとは単純に比較できない(ゲルギエフの場合、その醍醐味がないときもあるのが問題だが)。第1楽章でコントラバスのソロが落っこちたりとかいった事故は散見されたものの、全体としてはマーラーの複雑なオーケストレイションがきちんと整理されていたし、ところどころ「オッ!!」と思うような斬新な響きも引きだしていた。

願わくば彼らがマンネリ化せず、より水準の高いマーラーを追及してくれることを…。

2010年2月7日日曜日

そしてもう一度ゲルギエフ~ショスタコーヴィチとマーラー

  1. ドミートリ・ショスタコーヴィチ:交響曲第2番ロ長調「十月革命に捧ぐ」
  2. グスタフ・マーラー:交響曲第6番イ短調「悲劇的」
ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団&合唱団
2月6日 マリインスキー・コンサートホール 19:00~


これだけ悪態をつきながら、1日に2回もゲルギエフの公演に行ってしまうということは「いやよいやよも好きのうち」ではないかという気もしてくるが…。

このコンサート、当初の予定ではショスタコーヴィチの代わりにシチェドリンのトランペット協奏曲をやる予定で、それなら別に聞きにいく必要もないかなと思っていたのだが、前日にマリインスキーのサイトを見てみると、ショスタコーヴィチの交響曲第2番に変わっている。こんな珍曲、滅多に聞けない!!そう、ゲルギエフはこちらが聞いてみたいと思っているレアな曲をよく取りあげてくれるのだ。演奏内容はともかく、この点はウマが合う。しかもチケット代もそんなに高くないことが多いし。日本円にして、1000~1500円ということが多い。

マリインスキー劇場でのバレエが終わったのが、6時半過ぎ。コンサートホールの舞台にゲルギエフが姿を現したのが、その1時間後。オーケストラのほうも、劇場でもお見かけした顔がチラホラ。チェロのトップの方、「シェヘラザード」でもソロを弾いていましたよね(笑)。しかも団員が入場する直前になって、弦楽器の配置をヴァイオリンが向かいあう両翼型に変更。プログラムに載っていたシチェドリンの「復活祭の響き」という曲もカット(さすがに、リハーサルの時間がなかったのだろうか)。直前までドタバタして大丈夫かと思っていたが、意外と聞ける演奏だった。

ショスタコーヴィチの2番は、ウルトラ・ポリフォニーと呼ばれる中間部がトレードマークのような曲だが、ハードスケジュールの中いつの間に練習したのか、ウルトラポリフォニーもちゃんとこないしている。恐るべきテクニック。でもこのコンビの長所が出ていたのは、むしろ後半の明るい部分。陳腐な曲想だが(そして思わずのけぞってしまう歌詞)、ゲルギエフとマリインスキーの演奏で聞くと輝かしく聞こえる。しかも曲の冒頭部のモチーフが後半にも出てきていることを上手く活かしていた。前半と後半の不整合が指摘されることがある曲だが、実は音楽として一貫性があるのだとゲルギエフは主張したいのではないのだろうか。こうした巧みさが、ゲルギエフの人気の所以か。マイクが多数設置されていたので、おそらくCD化するのだろう。

マーラーの6番も冒頭から気合十分で、先月の4番5番よりさらに良かったと思う。第3楽章など、木管の和声を浮かび上がらせて、これが19世紀的なロマンチシズムを引きずりつつ、そこからの決別も含んでいる曲だということを、実感させてくれた。ただこの曲に関しては、過去、ブーレーズ/マーラー・ユーゲント管、サロネン/フィルハーモニア管という名演に接しているので、その時に味わった熱気や緊張感と比べると、いささか分が悪い。リハーサルをせずにこれだけの完成度まで持っていけるのだから、もう少し公演を絞り込んで練りあげた演奏を聞かせてくれればさぞかし、と(今回に限らずいつも)思うのだが。

終わったのが10時近く。長い一日だった。

2010年2月6日土曜日

バレエ・リュスの夢をもう一度~「シェヘラザード」と「ペトルーシュカ」

  1. ニコライ・リムスキー=コルサコフ:シェヘラザード
  2. イーゴリ・ストラヴィンスキー:ペトルーシュカ
ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団
踊り:ディアナ・ヴィシネヴァ、イーゴリ・ゼレンスキー、アレクサンドル・セルげーエフほか

2月6日 マリインスキー劇場 16:00~


いずれもバレエ・リュスでミハイル・フォーキンが振りつけたバレエ。ついでに言うと、両方ともニジンスキーが踊っている。今回の舞台は、その再現を目指したもの。普段はバレエなど振らないゲルギエフが、自らタクトを振るという点でも注目(オーケストラピットに入ってということ。もちろん、コンサートではよく振っている)。もしこれがバレエ・リュスの忠実な再現だとすると、なかなか興味深い舞台だった。

そもそもは「シェヘラザードをバレエ化するとどうなるんだ?」という素朴な疑問から足を運んでしまったのだが、これが面白かった。長い前奏曲(第1楽章)に続いて、シャーリアール王は狩りへと出発し(第2楽章)、王の不在の間に妻ゾベイダは奴隷と戯れ(第3楽章)、他の奴隷も巻きこんでどんちゃん騒ぎを繰りひろげるが(第4楽章のバグダッドの祭。海)、その最中に王が帰宅、奴隷を皆殺しにし、ゾベイダは自害して果てる(難破と終曲)というもの。原作の「千夜一夜物語」だと、こうして女性不信に陥った王は次々と娶った女性を殺していき、そこにシェヘラザードが登場、という筋の運びになっている。

実を言うと第2楽章までは、別にバレエ化しなくてもいいんじゃないかと思いながら見ていたが、第3楽章と第4楽章は見ごたえがあった。特に第3楽章の部分では、19世紀のバレエのパ・ド・ゥドゥとは明らかに違う、長い2人の踊り。どこがどう違うのか、バレエの知識が乏しいので上手く解説できないけど、華やかさよりもエロチックなものを感じたというのか。第4楽章にしてもそう。

フォーキンはこの振りつけのために東洋(具体的にどこだろう?)の踊りを研究したと、解説に書いてあったけど、確かに西洋式の踊りとは違う要素が入っているのは分かる。夏に見た「バフチサライの泉」が、やはりオリエンタルな世界を描いていながら19世紀バレエの延長を強く感じさせるのに対して、「シェヘラザード」のほうは、オリエントを梃子にしてバレエの新しい表現方法を開拓しようとしたのではないだろうか。同じ「オリエンタリズム」でも、バレエとしての方向性は全く逆である。

音楽は、第1楽章の後半にカットがあるほか、第2楽章の後、突然第4楽章の冒頭部が挿入され、その後第3楽章が始まる。それ以外は、とくに大きな変更はなかったような気がする。

「ペトルーシュカ」も、「シェヘラザード」ほどの驚きははなかったものの、やはり19世紀的な華やかさからの脱却を目指していると感じた。特に第1場、人形たちが登場する場面は見ごたえがあった。

バレエ・リュスの再現を目指したせいか、オーケストラは1911年版を使用。それともゲルギエフは、11年版を普段から好んでいるのだろうか。アンサンブルはやや緩い個所も見受けられたが、主役はダンサーなので、まあいいでしょう。