2010年7月11日日曜日

ウィーン・フィル in St. Petersburg

  1. ピョートル・チャイコフスキー:弦楽のためのセレナーデハ長調 作品48
  2. オットー・ニコライ:歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」よりアリア
  3. ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」 作品73
ワレリー・ゲルギエフ指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、イルディコ・ライモンディ(ソプラノ)、ルドルフ・ブッフビンダー(ピアノ)
7月10日 マリインスキー・コンサートホール 19:00~



今年の白夜音楽祭は豪華で、何とウィーン・フィルまで登場。右端の席ながら1200ルーブルで聞けてしまうのだから、安いものである。さすがに今回のチケットは完売で、会場は超満員。ウィーン楽友協会よろしく、いつもは合唱団が座る場所に客を座らせて、対応していた。

1月にザルツブルグでウィーン・フィルを聞いた時はピンとこなくて、今回は指揮がゲルギエフなので不安に思っていたが(彼のおひざ元なのだからしょうがないけど)、いや、今度はちゃんとウィーン・フィルの魅力を感じ取ることができた。

一曲目のチャイコフスキー。普段聞いているマリインスキーの弦と比べると、その魅力は明らか。12-10-8-6-5という大きさで、普段のマリインスキーより人数は少ないが、音の厚みはウィーン・フィルのほうがはるかに上。それでいて重たくならず、ふわっと浮くような軽やかな音を出す。

ただウィーン・フィルの個性と曲の個性が寸分の狂いもなくマッチしていると感じたのは、その後のニコライのほう。確かに、「優雅」という言葉がぴったりである。ペテルブルグのフィルハーモニーで聞くショスタコーヴィチと同じように、この曲はこのオケの音を想定して書かれたのだと思わせる、強烈な説得力がある。特に好きな曲でもないのに(おかげで、アリアのタイトルも確認していない)、ウィーン・フィルがなぜ多くの人から特別視されるのか、その理由を自分の耳で確認することができた。

ベートーヴェンでも、ウィーン・フィルの個性と曲が一体化している。最初の和音からして、もうウィーン・フィルの世界を作っている。「ああ、これが『本場』のベートーヴェンなのですね」と、ただひたすら耳を傾けるしかない。

ただ、たとえばアメリカやドイツのオケでも魅力的なショスタコーヴィチの演奏を披露するように、ウィーン・フィルのベートーヴェンが唯一のベートーヴェンだとは思わない。当たり前と言えば当たり前だが、つまり今回の演奏会で、そこまで熱狂することはなかったということである。

ライナー・キュッヒルが、いい指揮者の条件として「私たちの音楽を邪魔しないこと」と言ったという話を読んだことがある。そのとき「それなら、指揮者なんて置かなければいいじゃん」と思ったのだが、にもかかわらず指揮者を必要とするところが、オーケストラの面白いところだと思う。この日のゲルギエフは、いつもよりずっと真面目に振っていたし、「私たちの音楽」を邪魔することもなかったと思うが、ウィーン・フィルのベートーヴェンをより一段高い次元に持っていくレベルには、残念ながら達していなかったと思う。

ウィーン・フィルのドイツ・オーストリアものが特別な魅力を備えているということは分かったが、しかしそのことは、世界にもっと魅力的なベートーヴェンが存在することを妨げないことも、事実である。お金の話をして恐縮だが、1200ルーブルなら喜んで聞きにいくが、何万円も出してウィーン・フィルを聞きたいかと言われると、(この日の水準だと)ちょっとためらってしまう。クラヲタなら、一生に一度は、メッカにでも詣でるように、ウィーン・フィルを聞いておいたほうがいいとは思うが。もちろん、ウィーン・フィルがその実力を120%発揮することもあるだろうが、そうした演奏会に、生きている間に巡り合えるだろうか。

なんだかんだと、いつもながら偉そうなことを書いてしまったが、ウィーン・フィルとなると、どうしても構えてしまう自分がいる。

ちなみにブッフビンダーのピアノは、ウィーン・フィルの音色に対してやや硬い気がした。というか、やっぱりウィーン・フィルの前では影が薄くなったかなと。むしろアンコールで弾いたJ.シュトラウスのパラフレーズのほうが、遊び心が発揮されて楽しめた。前回も書いたとおり、アンコールのほうがいいというのは、この世界でよくある話。

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